横浜シネマリンでの諏訪敦彦先生とのアフター・トーク(2023.12.7)

2023年12月2日から8日まで、映画『Maelstromマエルストロム』の先行上映を横浜シネマリンでさせて頂いた際、毎日著名なゲストの皆さまに来て頂いていました。私は劇場公開が初めてで、トークなんか不慣れで下手過ぎて、まだ反省ばかりしています。ただ、12月7日にゲスト登壇して下さった諏訪敦彦先生とのトークの際は、諏訪先生が自分の話をすることに不慣れな学生達から話を聞くという、教職も兼ねられていることでだと思うのですが、私の考えていたことを引き出して頂いた内容だと感じ、また、引用して下さったゴダールの言葉も、お聞き出来て良かったと強く印象に残ったので、先生から許可を得て、書き起こしを掲載させて頂くことにしました。【撮影:中川達彦】

諏訪敦彦監督との出会い


山岡:私が在学していたのは、2010年まで映画美学校の京橋校があった最後、途中で無くなっちゃった時でしたね。


諏訪:その後、移転した時もいましたよね?


山岡:移転して…ビルに移った時にいました。


諏訪:その後もね、結構よく上映に来てくれて。何度か折々。編集中だった時ですかね?


山岡:そうなんですよ。一度、慶應大学での先生の上映の時に。その時、本当に煮詰まってて。 先生の上映してる時に行って「困ってるんです」みたいな話をしたような気がします。


諏訪:その時もこれに取り組んでいたの?本当に長い時間…。


山岡:5年半かかりました。


諏訪:ですね。完成したことをまず… おめでとうと言いたいです。


山岡:ありがとうございます!完成しないで遭難する可能性もあったのですが、何とか…。


諏訪:そうですね。何も知らないで今回、観させて頂いたんで。最初、冒頭から山岡さんのナレーションで始まるじゃないですか。最初、ナレーションで色々、こう説明があった上で、どういう風に始まってくるのかな?という風に思いながら観てたんですね。すると、ずーっと山岡さんのナレーションが続いていく訳ですよね。「そういう映画なんだ」ということに、途中から気が付くんですけど。多分、例えば映画美学校とかでドキュメンタリーについて話す時は、まぁ恐らくみんな、極力 ナレーションを避けたい。ナレーションとは常に何かを一方的に説明してしまうから、ナレーションに頼らないで、いかに映像で表現にしてくのかみたいな方に価値がある、という風に思いがちだと思うんですよ。ナレーションを使わないっていう選択をするドキュメンタリー監督も結構いますよね。それはまぁ、観る人に対して言葉というのが強く働きすぎるから、だと思うんですけど。でも、このナレーションをずっと聴いてるとですね、非常に僕たちはどっかに連れて行かれるというか、巻き込まれていくというかですね。恐らく、ナレーション自体は一気に録ってるんですかね?録音自体は…。


山岡:一気に録れないです…。


諏訪:ですよね。ナレーションは普通、最後に映画が完成して、ナレーションは後から入れる感じで。もう全て終わった時点から語られる訳ですよね。だけど、これは多分、テキストもそうだし、時間というのが塗り込められているというか。決してどっか、もう終わった所から、振り返って何かを語ってる訳ではないっていう。だからこう、観客がですね、やっぱり観る側が時間とか流れの中に、こうずっとこう漂っていくように、巻き込まれてるんですね。それは、このテキストを練っていくとか塗り込まれた時間みたいなのが、やっぱり強さをね、持ってると思うね。やっぱりそれは、違うとこだと思うのね。どうでしたか?


山岡:最初は全く違う編集だったんですよね。もっと感情のマグマみたいな。 その時は『PLAN75』の早川千絵監督が観てくれて。その時に彼女が「こういうのにも価値があると思うけど、それを観せる時に山岡さんが凄い注意しないと誤解されちゃうから」みたいな、凄く冷静な、客観的な意見を頂いて、そこから凄く考えて。かつ、カメラを持ち歩くと、どんどん 色んな事件が起きてきたんです。そしたらこれは、怪我をした後の今の私がどういう感情を抱えてるかとか、そんな小さな話じゃなくて、もっと大きな人生全体を描かなきゃいけないっていう方向に変わって。で、私が意識したのは、その時々、生きていた時代に自分は何を考えていたかったことに戻って、その時考えて来たことを最小限の言葉で、かつ凄く客観的に、感情的にぶれずに、その言葉を綴ってみて、どういう言葉だったら この時の気持ちが最小限の言葉で伝わるかなってことを探り始めて。いちいち、ここは決まったなと思ったら、周りが寝静まった深夜に友人からお借りした機材で、自分の声をワンセンテンス録音して、結構私は腹筋利いてないんで、 ナレーションが暗くなっちゃったらもう一度録り直して、書き出してタイムラインにはめて、また新しく書き直したらもう一度っていうことを繰り返してて。そんなこと 5年半やってたんで、もう嫌だと。二度とあの生活はしたくないですね(苦笑)、大変でした。


諏訪:今の声も色んな時間で録音されてる?


山岡:そうなんです。だから、最初、横浜のBankARTのアーティスト・レジデンスに2021年に参加した時に、自分の家だけじゃなくて、周りに人がいる環境で作業してみたいなと思うことで、編集作業を続けていたんですけど。そこで仮編を他のレジデンス・アーティストの人達にスクリーンを使って観て頂いて意見を頂いたんですけど、もう音がバラバラで、その時は私の友人の映画監督の方も来てくれたんで、「山岡さん、あれは完成したら整音に出さなきゃいけないよ」って。「え?整音ってどこに出せばいいの?」って、そこから始まって。全部友人に訊いて、また訊いて、みたいな感じで前に進めてきました。


諏訪:その言葉の選び方というか言葉ひとつ選ぶのに、恐らく色んな時間がかかっている訳ですよね。それがやっぱり、感じられるんですよ。だから映画として聴いているとでね、映画になっていると思う。それは多分、パッと聴いたら分からないかもしれないけど、だけどやっぱり違うんですよね。そこにどれだけ時間かかったのかというのがね。だからなんか、本当に出来事に出会っていくような感じがするんですよ、自分達が。それはなかなか、そう簡単には出来ない…と思います、ええ。

山岡:私も自分が事故に遭うとか、出口がない沼にハマって…。例えば病院で車椅子でわぁって走るその走行音が、わぁって聴こえる時があって。それは整音の人が避けたがったんですけど、「これは私が感じた恐怖なんで、これを大きくして下さい」みたいな。車椅子の走行音なだけなんですけど「これは本当の怖さなんです、私の」って言って。敢えて。私の中では『シャイニング』の怖さくらい。生活圏の中の怖さ。そういうのが色々重なっていて。そうですね、やっぱり私が、まさか上司が、自分の上司が、良い方だったんですけど、あんな風に突然亡くなるとも思ってないし、事務所があんな風にパッと片付いて、何も無くなるってことを想像することも勿論、想定していなかったし、コロナもそうだし、父も倒れてから本当にすぐ亡くなってしまったので、そういうのも人生の一部だし、私達の生きている時間っていうのがどれだけ短いか。そういうのも色々含めて描きたかったんですよね。


諏訪:失われていくものというか、別れというか、そういうのがかなり沢山描かれていますね。


山岡:そうですね。カメラを持ち歩くようになって気づいたんですけど、例えば映画の中に出てくる私がよく行っていたお店があるんですけど、そこもあの時はああいう形をしていて、ああいうスタッフがいたんですけど、今は私は仲良くしていた人達はもう辞めているし、ああいう店ではないし、映画の中に映っているものの殆どは前と同じ形ではなくなっていて、それだけ私達の日常というのは変わっていく事っていうのが起きてことに気付いて。やっぱり私たちが日常で、前と同じ時間っていうのは本当に1つもなくて。そういう風に何か変化を繰り返して、海の波のように日々、一見同じ様だけど変わっているっていう事が凄く実感したんですよね。撮りながらですけど。


諏訪:そういう視点が、山岡さん 個人の物語なんだけども、それは多分誰にでもある。誰もが今、自分が当たり前だと思っている現実っていうのは、やがては消えてしまうかも知れないっていうことをね、多分、誰もがそれを生きている訳で。そういう風な広がりっていうものを、この作品がすごく持ち得たんじゃないかな、という風に思うんですよね。


映画から死刑宣告を受ける


山岡:ありがとうございます。多分、みんな変わるんですよ。絶対に。それは避けられないと思います。必ず物事っていうのは終わるし。でも私が車椅子に座って、これは事故があって 21年ですけど、それ以前は普通に歩いていた人だったので、一見車椅子に座っている人って自分とは全然関係ない人に思われてしまうかもしれないですけど、それはもう 事故に遭って受傷した側になって入院したりとかすると、初めて、こういう繋がってる…これだけの多くの人がこういう怪我をして、色んなシビアな、それぞれシビアな現実に飲み込まれて、人生を歩んでるって事に凄く気付かされる。私も怪我をするまで、こういう自分が、まさかこんな中途障害っていうことになるって、みんな思って生きてないですから、だから、そういうこともやっぱり人生と繋がっている。車とか、みんな 部活なり、まあバイクなりに乗ったりすれば、まぁこういう…昔からこの怪我ってあったと思うんですけど、そういうことも知って欲しいし、何かそれも別に大きな悲劇としてでなく、当たり前に、それでも続きが生きられるような社会とか、街の作りも、人々の目も特別視ないで、こういう怪我があって、例えば家の中で高齢者が転んで突然こういう怪我をして、不自由なまま苦しんで亡くなっていく人も沢山いて。私が映画に関わる前の仕事っていうのは脊髄損傷者のNPOで、亡くなっていく会員を会員リストから消していく、そういう作業を担当してたんですけど。 毎回職場に行くと、これだけの方が再生医療が実現しないまま、静かに消えていく。その時に、京橋に週末に気分転換に映画を観に行ったんですよ。アメリカ映画で、とてもいい賞を獲っている、戦う女性が主人公の。その女性の主人公が戦い終えた時、バランスを崩してどっかにぶつかって頸椎損傷になる、呼吸器の。そこで私は画面に見入って、「これからどうなるんだろう?これから人生というものの価値・真価が問われる。どういう決断をするのだろう?」って観ていたら、安楽死させられちゃって。それで「はぁっ⁈」って思って。勿論映画作ってる側の人達っていうのは、私みたいな歩けなくなったっていう症状にない訳ですから、元気に映画を作ってる訳じゃないですか。そこで私が、そういう人達が作ったものに何かヒントを得られると思って来たのがそもそも間違ってたとは思うんですけど。そういう映画の、フィクション映画のスパイスとして使われたことにすごく腹が立って。これだけ沢山の人が静かに消えていく…不本意なまま。それが凄く、心の中ってずっと「えっ?」って疑問に思ってて。だからと言ってすぐ 映画を作ろう、という風には行かなかったんですけど、ずっと心の中に疑問として残ってて。それが結果的にデンマークに行ったことがきっかけで、 自分でも作れる時代になってるということを学んで、それから映画美学校に行って諏訪先生に巡り会う、という流れだったんですけど。


諏訪:有名な映画ですね?


山岡:そうですね。敢えて言わなくても、皆さん、もしかしたら分かってしまうかも知れません。


諏訪:そうね。美学校でペデロ・コスタがきた時も、何か質問してましたよね?


山岡:何か私が変なこと言ってたんでしょうね。きっと。


諏訪:ペデロ・コスタがこないだ、何かのインタビューで言ってたんだけど、映画がどのような結末を迎えようとも、勿論簡単に楽観的な結末を迎える訳にはいかないのかもしれないが、それでも映画はいつかその世界は良くなる可能性があるっていうことを示さなければならないって…。


山岡:私はあの映画を観て、死刑宣告を受けた様に思って…。ヒントを得たいと思って観に来た当事者の人が、死刑宣告を受けて帰っていいのかなっていうのは疑問でしたね。私にとっては。


諏訪:映画が利用してしまったと感じたんですね。


山岡:そういう感じがちょっとして。ちょっと…。もやもやしたっていうだけの話なんですけど、一人の観客として。

「それぞれのやり方で逃げろ」「それぞれのやり方で自分の人生を救え」


諏訪:僕が山岡さんの映画を観てちょっと思い出した言葉があってね。 ゴダールがインタビューで応えているんですね。丁度『勝手に逃げろ/人生』という映画を撮った時。それは、「それぞれのやり方で逃げろ」っていう。


山岡:なるほど。


諏訪:それは、津波の時も言われましたが、「それぞれのやり方で自分の人生を救え」という、そういう意味が込められてると思うんですね。「なぜ人が映画を作るのか。自分の場合はなぜ映画を作るのか分かるんですけど。僕自身はですね、自分が映画を作る理由を説明することが出来ます。僕が映画を作るのは僕自身の映像を見せるためなんだ。そうすれば、時々は誰かがその前で足を止め、僕に関心を持ってくれると言う訳だ。そしてそれは、その誰かがそこに自分の人生を見るからなんだ。自分ではなく、他の誰かによって提出された自分自身の映像を見るからなんだ。だから足を止める。そして、3秒間ぐらいはそれに目をやってくれるという訳だ。これだけでも、もうすでに儲けもんなんだ」という風に言っていて。自分のために映画を作る。でもこれは、結構簡単なことではない。その場合、やっぱりその強度というか、本当に自分がそれを必要としているっていう事の強度が問われるだろうと思うんですよね。で、多分早川さんが観た時に、山岡さんがこう、自分の感情を吐露していくプロセスがあったんだと思うんだけど、そこからさらに深めていったのは、やっぱりそれが本当に自分の必要な映画になるかどうかっていう。そういうプロセスだったんじゃないかと思うんですね。強度が問われるだろうなと。それを、時間をかけて鍛え上げて行ったんじゃないかな。という風に思いましたね。まぁ、ゴダールは言っていることとやっていることが大分違うんで、あんまり信じちゃいけないんですけど、まぁ、僕は印象に残ったんですね、こういうことを言うんだ、と思って。彼は晩年に自画像を撮りましたけど。


山岡:あ、そうなんですか。


諏訪:彼自身による初めて彼の少年期の写真を自分で使いながらね、自画像を撮りました。でも、山岡さん、これを撮ったら、山岡さん自身が随分変わるんじゃないですか?


山岡:大分ねぇ、一体化したと言うか。本当にチューニングが合ってきましたね。


諏訪:チューニングが合うというのは?


山岡:やっぱり、アート系の作業が全然止まってしまった訳じゃないですか。そこの感覚的なものがチューニングが合って来たと。あの、これと同じタイミングで展示も…。黄金町の高架下Site-Aギャラリーという所で、この映画に出てきた自分の過去の作品から2021年と23年にBankART AIRに参加したんですけど、その時に作った作品も同時進行で展示しています。ちゃんとアーツコミッション・ヨコハマが助成についてくれて、本当にありがたいんですけど、設営のプロの方がやって本当にきれいに出来上がったの、皆さんぜひ見て行って下さい。


諏訪:でも、この映画自体がすでにアートの領域ですよね。


山岡:どちらかと言うと、アーティストの人が短い映像作品を作ったりすることがあると思うんですけど、本当にそっちに近いと思うんですよね。ずっと誰かの主観で最初から最後まで走り抜けるというところとかも。だからそういう風に映画好きというか、アートに興味がある人にもぜひ観て頂きたいなと思って。本当にこれを作ることで、またそれを展示して、こういう人様に見てもらうっていう作業をする中で、やっぱり自分自身が進化して来れたな、みたいな。


諏訪:アートとは何かっていうことを問いかけてるって言うところも、この映画の中にはあるんじゃないかと思いましたね。映像の編集も良かったと思うんですよね。


山岡:大丈夫でしたか?


諏訪:映像の編集も、相当、相当これはやっぱり試行錯誤されているだろうな、というのがやっぱり分かりますよね。それは、違うんですよ。ナレーションと一緒で。そこにどれだけの時間が費やされているのかというのは。どうやってそのショットが選ばれているのかというのはね。簡単ではないな、と思いました。


山岡:特にNY時代の映像っていうのは、自分でポンって行ってサッて撮ってくる訳にもいかないので、そこでたまたま知り合った当時NY在住だった日本人のエディターの若い方がいらっしゃって。彼がもう、私が「ここをこうやって撮って来て」というのを全部。


諏訪:あの風景とかですか?


山岡:そうですね。あれがなかったら全然まとまらなかったと思うんですね。凄くラッキーなことに、本当にそういう時に必要な人が助けてくれた…そういう人たちの力が結集して。だからあたかも事故前の映像はあったかのようですけども、実際は写真とか絵しか残ってなくて。これを、どういう風にあたかも過去のように映していくか。凄く悩んで…。でも、こうやって諏訪先生もOK というか、大丈夫じゃない?って言ってくれて、ちょっと安心します、本当に…。映像が残ってるのは、映画美学校で映画とかそういうものに意識し始めてからやっと映像を撮っているんで、なかなか、例えば車に乗り込むシーンとかは全部映ってますけど、「あれがいいね」とああいうのばっかりにすれば良かったのかもしれないけど、実際はそんなことは出来ないんで。


諏訪:そういう必要はないと思いますけどね。


山岡:ありがとうございます。


諏訪:そういうものを見せるだけの映画ではないんでね…。

山岡:結局、全部のものを見てるのは私だけなんですよね。考えてるのも。だから私1人が 結局幹になって、最初から最後までずっと私という幹のところに、葉っぱがそれぞれの所にちょこちょこと生えていて、「最初から最後まで私の視点です、これは」みたいな所から離れられないというか。


諏訪:それは良かったと僕は思いますよ


山岡:良かった…。


諏訪:つまり、だから「私でしかない」ということは反論できない訳ですね。お父さんもお母さんも反論は出来ない訳です、この映画の中では。だけど、だから、山岡さん自身はそこで自分一人で対話しなきゃいけない訳なんです。


山岡:そうなんですよ。


諏訪:そういうものを経てるっていう風に感じる訳ですよね。それを経ていなければ、やっぱり対話がなくなってしまう。実際の対話はないけれども、可能性としてそのことは常に山岡さんの中にある。それが、通過してきた言葉と映像なんだということが分かる。そこは大きな違いなんです、多分。そう思いますよ。


山岡:ありがとうございます!


【2023年12 月7日(木)、横浜シネマリンでの『Maelstromマエルストロム』での諏訪敦彦監督とのアフター・トークの録画から書き起こし、一部加筆修正】