拙作『Maelstromマエルストロム』が、2025/2/1(土)に立命館大学生存学研究プロジェクト/大谷いづみ先生の最終講義で、オンライン上映されました。地方での上映はなかなか機会を作るのは難しいため、貴重な機会でした。

 院生や役所の方、ハワイからなど6名の方々が国内外から質問などご発言して頂けました。関西など地方での上映はなかなか機会を作るのが難しいため、今回、大谷いづみ先生のご尽力、スタッフの皆様のご協力(中国語字幕まで付けて頂き、作業大変だったと思います)でこの様な素晴らしいコミュニティで上映して頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。

ありがとうございました。

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■イベントの正式名称

映画『Maelstromマエルストロム』上映会・トークイベント

■企画趣旨:

ある映画の「脊髄損傷者」の描写に衝撃をうけつつも、内省を繰り返し、人と人、人と社会のつながり、自分自身と表現者であることをとりもどして行く過程と社会的関係の多層性を描出したセルフドキュメンタリーフィルム『Maelstromマエルストロム(大混乱)』(2022)の監督・撮影・編集・ナレーションを務めた山岡瑞子氏を招き、フロアとの対話の機会とする。

なお、同作は、ピッツバーグ大学Japan Documentary Film Award 2022受賞、キネマ旬報2023文化映画ベストテン5位入賞ほか、日・独・墺・葡と国内外の映画祭で上映されている。

本企画は、大谷が担当の社会学研究科講義系科目「現代社会特殊研究」の授業の一環でもあるが、映画の主題と上映・トークセッションともに完全オンラインであることに鑑み、

大谷と司会/ファシリテーターの川端のアクセシビリティ・プロジェクト※のメンバーをはじめ、この企画に是非参加していただきたい方々にも開いた企画とした。

立命館大学生存学研究所:支援テクノロジー開発・アクセシビリティ・プロジェクト

主催:立命館大学生存学研究所研究プロジェクト

共催:立命館大学生存学研究所


■ 開催日: 2月1日(土)

プログラム概要(予定)

14:00-14:10 開会の辞・諸注意(10分)

14:10-15:30 映画「マエルストロム」(79分)上映(80分)

休憩(15分)

15:45-17:15トークセッション(90分)

 山岡瑞子(マエルストロム監督・撮影・編集・ナレーション)

 大谷いづみ(産業社会学部/生存学研究所)

 川端美季(生存学研究所)(司会/ファシリテーター)

17:15-17:30 閉会の辞

ドキュメンタリー映画『Maelstrom マエルストロム』の上映会+哲学対話イベントを、横浜市戸塚区のパフォーミングアーツ&マルチメディアアート空間 MURASAKI PENGUIN PROJECT TOTSUKA(MPP Totsuka) にて、11月17日(日)に開催しました。

本イベントでは、第1部で映画『Maelstrom マエルストロム』の上映、第2部では本作を監督/制作した山岡瑞子監督、子ども達や地域での哲学対話を全国の教育機関や図書館などで実践されている河野哲也氏、自殺対策の一環である「ゲートキーパー養成」に従事され、広く研修や講義活動をされている森本美花氏をファシリテーターにお迎えし、哲学対話を通して上映作品について振り返り、関連のあるトピックについて、来場者それぞれの体験や考えを共有しました。壇上から一方通行的に上映/トークをするのではなく、哲学対話(話し、聴き、より深く考えていく)の時間を持つことが有意義でした。

隈研吾建築設計事務所による木造建築のMPP Totsuka独特の、角を中央に配置した壁面に映し出される映像で、フラットなスクリーンとは異質の臨場感ある映像体験となりました。壁面に写真も掲げさせて頂き、MURASAKI PENGUIN PROJECTの素晴らしい施設の中での思い出深い上映会でした。お手伝いスタッフの皆さま、ご来場下さった皆さま、ありがとうございました。


◾開催日時: 2024年11月17日(日)14時開場 14:30 上映開始 

◾ 会場: MURASAKI PENGUIN PROJECT TOTSUKA

  神奈川県横浜市戸塚区戸塚町4247-21 (JR・横浜市営地下鉄「戸塚駅」より徒歩約6分)

  https://www.mpptotsuka.com/

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◾映画『Maelstromマエルストロム』(2022年/カラー/ HD/日本/79分)

ストーリー:

2002年6月の初め、NYにある美大を卒業し、あと1年間滞在予定だった留学生が銀行に向かう途中、事故に遭う。突然、それまでの日常を失い、それまでの時間が存在しない場に戻った時、何がその人らしさを繋ぎ止めるのかー。突然、事故の当事者になった“私”は、大混乱の中、変わってしまった日常の記録を始める。事故前の自分と繋がり直し、探している場所に辿り着けることを祈りながらー。

■ 監督・撮影・編集・ナレーション:山岡瑞子 ■ 撮影:本田広大・平野浩一・高橋朋子 ■ 音楽:オシダアヤ(2022年 / カラー / HD / 日本 / 79分 / English Subtitled)

◾️ 映画『Maelstromマエルストロム』 公式サイト:https://maelstromfilm.com/

◾️「maelstrom」とは、大渦巻きや大混乱を意味する。この映画は、監督した山岡自身に起きた、逃れられない絶望的な大混乱の渦を見つめた日々の記録を79分にまとめたエッセイ・ドキュメンタリー。2016年から制作を始めた本作は、事故から20年後の2022年に完成。2022年 ピッツバーグ大学の日本ドキュメンタリー映画賞グランプリ、東京ドキュメンタリー映画祭2022、PORT FEMME INTERNATIONAL FILM FESTIVAL 2023、NIPPON CONNECTION 2023、JAPANNUAL2023、前橋映像祭2024 plusなど、6つの国内外の映画祭にて正式出品、2023年度キネマ旬報文化映画部門5位に選出された。

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◾当日スケジュール

14:00 開場

14:30〜15:50 【第1部】 映画『Maelstrom』上映

15:50〜16:00  休憩

16:00〜17:20 【第2部】 哲学対話

17:20〜17:30 まとめ  終了

◾ファシリテーター / プロフィール

山岡 瑞子 | Mizuko YAMAOKA

映画作家/アーティスト。1998年渡米。2002年Pratt Institute(NY)卒業直後、事故に遭い帰国。中途障害者・帰国者の立場からの制作方法を模索する。2016年、バルセロナで初短編ドキュメンタリー制作。BankART AIR 2021への参加を経て、22年初長編ドキュメンタリー映画『Maelstromマエルストロム』完成。ピッツバーグ大学 Japan Documentary Film Award 2022受賞。第23回ニッポン・コネクション他、オーストリア・ウィーンで開催されたJapannual 2023など、国内外の映画祭で上映され、23年12月に横浜で先行上映。第97回キネマ旬報文化映画ベスト・テン第5位選出。2023年度ACYアーティスト・フェロー。

河野 哲也 | Tetsuya KOHNO

立教大学文学部・教授、博士(哲学)慶応義塾大学。日本哲学会事務局長、日本学術会議委員(第26〜27期)哲学委員会委員長。日本哲学思想系諸学会連合事務局長、専門は、現代哲学と倫理学。

現象学的身体論の観点から、心の諸科学の基礎を再構築し、教育学や特別支援教育、福祉のあり方について考察している。近年は、この立場を拡張し、環境問題を扱った哲学や倫理学を展開している。また、哲学対話という方法を用いて、地域創生や環境問題について対話的解決を実践するとともに、子どものための哲学対話を、道徳教育や総合学習に適用し、未就学児から高校生まで対象として、全国の教育機関や図書館などで実践している。

代表著作:『現象学的身体論と特別支援教育』(北大路書房、2015)、『境界の現象学:始原の海から流体の存在論へ』(筑摩選書、2014)、『人は語り続けるとき、考えていない:対話と思考の哲学』(岩波書店、2019)、『じぶんで考え じぶんで話せる:こどもを育てる哲学レッスン・増補版』(河出書房新社、2021)、『間合い:生態学的現象学の探究』(東京大学出版会、2022)、河野哲也・田中彰吾『アフォーダンス』(東京大学出版会、2023)、『アフリカ哲学全史』(ちくま新書、2024)など。

森本 美花 | Mihana MORIMOTO 

大阪芸術大学芸術学部卒業後、さまざまなアルバイト、エステシャン、営業職、管理職、人事総務部門を経験。多様な仕事や働き方を経験したことから「楽しく働く人を増やす」仕事がしたいと考え、カウンセラーの資格を所得。カウンセラーとして2009年より活動を開始。現在は主に、働く人のメンタルヘルス、ハラスメント対策、キャリア開発、障害者雇用や定着、企業(特例子会社含む)や個人のカウンセリング、コンサルティング、研修等、産業保健や人事労務領域を支援しているほか、都内心療内科クリニックで臨床場面のカウンセリングを実施。これまでのカウンセリング実績は延べ5,000名を超える。また、自殺対策にも力を入れており、2011年より自殺対策の一環である「ゲートキーパー養成」に従事。市民団体向け、自治体、企業、教育現場への研修や講演等も行っている。

保有資格:精神保健福祉士、公認心理師、キャリアコンサルタント(キャリアコンサルティング技能士2級)、メンタルヘルス法務主任者、ハラスメント防止コンサルタント、ジョブコーチ など。

所属団体:特定非営利活動法人 ゲートキーパーTONARINO 理事長

寄稿:うつ患者の家族向けコミュニティサイト エンカレッジ | インタビュー掲載 家族に「死にたい」と打ち明けられたら。希死・自殺念慮との向き合い方、メンタルヘルスマガジン「こころの元気+2021年11月号」|寄稿 〜ちょっと知りたい!ゲートキーパー

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主催:maelstromfilm事務局

助成:アーツコミッション・ヨコハマ

拙作映画『Maelstromマエルストロム』が上映される前橋映像祭2024 plusのスケジュールがアップされました。初・前橋上映です。ア-ティスト・ト-クは現地での参加は難しく、zoomで参加しました。他の皆さんの作品も独自の視点で、とても興味深いラインナップだと思いました。そんな中、沢山話させて頂いて、大丈夫だっただろうか、という心配はありますが、映像祭運営の皆さま、上映ア-ティストの皆さま、ご来場&ご質問下さった皆さま、大変貴重な機会を、本当にありがとうございました。

https://maebashimediafestival.jp/2024program/

(写真はzoomで参加された『三里塚の記録』森田具海監督、『なおす/Mending』Mari Rawanchaikul監督、私と会場の様子です。)

https://maebashimediafestival.jp/

▪️ 第14回前橋映像祭 2024 plus

会期: 2024年11月2日(土)

会場: 裏の間(re/noma) 〒371-0022 群馬県前橋市千代田町4-1-2

▪️前橋映像祭とは:

「前橋映像祭」は、2010年に「弁天通り映像祭」として始まった公募型の映像祭です。これまで、群馬県・前橋市を会場に、映画、ドキュメンタリー、ビデオ・アート作品、ライブ・パフォーマンス作品、音響作品など、さまざまな形態の作品が集まり、映画監督やアーティスト、ミュージシャンをはじめ、たくさんの人々に参加して頂きました。

特徴は、前橋という「場所性」にこだわりながら、一般の商業的な映画館や美術館、ギャラリーでは上映や上演が難しい領域横断的で個性的な作品を、みんなで一緒に鑑賞しながらじっくりと密度の高い議論を行うというかたちをとってきたところです。

▪️Maebashi Media Festival

The Maebashi Media Festival began in 2010 as the Benten Street Film Festival, screening films from an open call for entries.

The venue has until now been the Maebashi city in Gunma Prefecture, Japan. And it has brought together various forms of film, documentary, video art, live performance and sound works, and has been visited by many people including film directors, artists and musicians.

What we think is unique about us is that we are committed to the ‘locality’ of Maebashi, and we take our time enjoying and discussing together in depth the interdisciplinary and unique works that are difficult to show or perform in commercial cinemas, museums and galleries.

本日(2024/7/4)はインディペンデント・キュレーター/映画作家/ア-ティストでもある渡辺真也先生の教えているテンプル大学の夏セメスターのJapanese Art before and after World War IIのゲスト講師として、拙作『Maelstromマエルストロム』の上映と講義をさせて頂きました。初めての経験なため、自分なりに色々考えて、上映前に「①私が何を伝えたかったと思うか?②記憶に残ったシ-ンは?」の2項目を考えながら観てもらい、上映後にグループ・ディスカッション、その後に発表してもらいました

 『Maelstromマエルストロム』はモノローグで、結構集中力が要求される作品なため、集中力のキ-プが苦手そうな学生もいましたが、意外にも積極的に発言してくれたり、エンパシー(共感)とシンパシー(同情)の違いにも話が及び、やはりディスカッションの時間を持つと、観た方に深く考えて頂けることを実感しました。大分英語は渡辺先生に助けて頂き、やはり使う機会がないと衰退が半端ないです。

私と近いタイミングで 、NYUの大学院で学ばれていた渡辺先生や私が見てきた外交的なアメリカ人はコロナ以降減り、今は繊細・内省的でアニメや漫画が大好きなアメリカ人学生が増えたそうです。ベトナム戦争のことも、昔過ぎて興味がなかったり、911の時は生まれてなかったり。私達が見てきた日本人大学生軍団とか、円安の今、バックパッカーとかももう死語だとか、色々なジェネレーションギャップを、現役の大学教授目線で教えてもらいました。かなり変わったと。意外でした。

授業前に学内を色々見せて頂きましたが、図書室もカフェテリアも教室もせせこましさがなく、私のいたPrattほどのカオスはなく。

都内にいながらアメリカの大学で学ぶというのも、なかなか良いなと思いました。

5/10(金)から始まったアップリンク吉祥寺での上映も、2週目に入りました。1週目にも、初日に佐々木誠監督、11(土)には安斎肇さん(イラストレーター/アートディレクタ−/ソラミミスト)、12(日)には諏訪敦彦監督、15(水)には翻訳家で詩人のヤリタミサコさん、きくちゆみこさんをお招きして、トーク・イベントを開催し、好評頂きました。

せっかくですので、公開中にトークの一部を公開することにしようと思いまして、諏訪敦彦さんとのアフタートークの模様を、許可を得ましたのでこちらにアップします。ただ、私が最後の大事なところで、ゴダールの『勝手に逃げろ/人生』を『勝手に生きろ/人生』と言い間違えるという大失態を演じてしまいました。恥ずかしい。諏訪先生、申し訳ありません。そこに目をつむって頂ければ、良い話し合いが出来たのではないかなと思います。

もし気になった方は、ぜひ観てみて下さい。

18(土)のアフター・トークは挿入曲の『Oh,so Blue』を作詞/作曲された、ミュージシャンのオシダアヤさんのショート・ライブです!ぜひ聴きにいらして下さい!

2023年12月2日から8日まで、映画『Maelstromマエルストロム』の先行上映を横浜シネマリンでさせて頂いた際、毎日著名なゲストの皆さまに来て頂いていました。私は劇場公開が初めてで、トークなんか不慣れで下手過ぎて、まだ反省ばかりしています。ただ、12月7日にゲスト登壇して下さった諏訪敦彦先生とのトークの際は、諏訪先生が自分の話をすることに不慣れな学生達から話を聞くという、教職も兼ねられていることでだと思うのですが、私の考えていたことを引き出して頂いた内容だと感じ、また、引用して下さったゴダールの言葉も、お聞き出来て良かったと強く印象に残ったので、先生から許可を得て、書き起こしを掲載させて頂くことにしました。【撮影:中川達彦】

諏訪敦彦監督との出会い


山岡:私が在学していたのは、2010年まで映画美学校の京橋校があった最後、途中で無くなっちゃった時でしたね。


諏訪:その後、移転した時もいましたよね?


山岡:移転して…ビルに移った時にいました。


諏訪:その後もね、結構よく上映に来てくれて。何度か折々。編集中だった時ですかね?


山岡:そうなんですよ。一度、慶應大学での先生の上映の時に。その時、本当に煮詰まってて。 先生の上映してる時に行って「困ってるんです」みたいな話をしたような気がします。


諏訪:その時もこれに取り組んでいたの?本当に長い時間…。


山岡:5年半かかりました。


諏訪:ですね。完成したことをまず… おめでとうと言いたいです。


山岡:ありがとうございます!完成しないで遭難する可能性もあったのですが、何とか…。


諏訪:そうですね。何も知らないで今回、観させて頂いたんで。最初、冒頭から山岡さんのナレーションで始まるじゃないですか。最初、ナレーションで色々、こう説明があった上で、どういう風に始まってくるのかな?という風に思いながら観てたんですね。すると、ずーっと山岡さんのナレーションが続いていく訳ですよね。「そういう映画なんだ」ということに、途中から気が付くんですけど。多分、例えば映画美学校とかでドキュメンタリーについて話す時は、まぁ恐らくみんな、極力 ナレーションを避けたい。ナレーションとは常に何かを一方的に説明してしまうから、ナレーションに頼らないで、いかに映像で表現にしてくのかみたいな方に価値がある、という風に思いがちだと思うんですよ。ナレーションを使わないっていう選択をするドキュメンタリー監督も結構いますよね。それはまぁ、観る人に対して言葉というのが強く働きすぎるから、だと思うんですけど。でも、このナレーションをずっと聴いてるとですね、非常に僕たちはどっかに連れて行かれるというか、巻き込まれていくというかですね。恐らく、ナレーション自体は一気に録ってるんですかね?録音自体は…。


山岡:一気に録れないです…。


諏訪:ですよね。ナレーションは普通、最後に映画が完成して、ナレーションは後から入れる感じで。もう全て終わった時点から語られる訳ですよね。だけど、これは多分、テキストもそうだし、時間というのが塗り込められているというか。決してどっか、もう終わった所から、振り返って何かを語ってる訳ではないっていう。だからこう、観客がですね、やっぱり観る側が時間とか流れの中に、こうずっとこう漂っていくように、巻き込まれてるんですね。それは、このテキストを練っていくとか塗り込まれた時間みたいなのが、やっぱり強さをね、持ってると思うね。やっぱりそれは、違うとこだと思うのね。どうでしたか?


山岡:最初は全く違う編集だったんですよね。もっと感情のマグマみたいな。 その時は『PLAN75』の早川千絵監督が観てくれて。その時に彼女が「こういうのにも価値があると思うけど、それを観せる時に山岡さんが凄い注意しないと誤解されちゃうから」みたいな、凄く冷静な、客観的な意見を頂いて、そこから凄く考えて。かつ、カメラを持ち歩くと、どんどん 色んな事件が起きてきたんです。そしたらこれは、怪我をした後の今の私がどういう感情を抱えてるかとか、そんな小さな話じゃなくて、もっと大きな人生全体を描かなきゃいけないっていう方向に変わって。で、私が意識したのは、その時々、生きていた時代に自分は何を考えていたかったことに戻って、その時考えて来たことを最小限の言葉で、かつ凄く客観的に、感情的にぶれずに、その言葉を綴ってみて、どういう言葉だったら この時の気持ちが最小限の言葉で伝わるかなってことを探り始めて。いちいち、ここは決まったなと思ったら、周りが寝静まった深夜に友人からお借りした機材で、自分の声をワンセンテンス録音して、結構私は腹筋利いてないんで、 ナレーションが暗くなっちゃったらもう一度録り直して、書き出してタイムラインにはめて、また新しく書き直したらもう一度っていうことを繰り返してて。そんなこと 5年半やってたんで、もう嫌だと。二度とあの生活はしたくないですね(苦笑)、大変でした。


諏訪:今の声も色んな時間で録音されてる?


山岡:そうなんです。だから、最初、横浜のBankARTのアーティスト・レジデンスに2021年に参加した時に、自分の家だけじゃなくて、周りに人がいる環境で作業してみたいなと思うことで、編集作業を続けていたんですけど。そこで仮編を他のレジデンス・アーティストの人達にスクリーンを使って観て頂いて意見を頂いたんですけど、もう音がバラバラで、その時は私の友人の映画監督の方も来てくれたんで、「山岡さん、あれは完成したら整音に出さなきゃいけないよ」って。「え?整音ってどこに出せばいいの?」って、そこから始まって。全部友人に訊いて、また訊いて、みたいな感じで前に進めてきました。


諏訪:その言葉の選び方というか言葉ひとつ選ぶのに、恐らく色んな時間がかかっている訳ですよね。それがやっぱり、感じられるんですよ。だから映画として聴いているとでね、映画になっていると思う。それは多分、パッと聴いたら分からないかもしれないけど、だけどやっぱり違うんですよね。そこにどれだけ時間かかったのかというのがね。だからなんか、本当に出来事に出会っていくような感じがするんですよ、自分達が。それはなかなか、そう簡単には出来ない…と思います、ええ。

山岡:私も自分が事故に遭うとか、出口がない沼にハマって…。例えば病院で車椅子でわぁって走るその走行音が、わぁって聴こえる時があって。それは整音の人が避けたがったんですけど、「これは私が感じた恐怖なんで、これを大きくして下さい」みたいな。車椅子の走行音なだけなんですけど「これは本当の怖さなんです、私の」って言って。敢えて。私の中では『シャイニング』の怖さくらい。生活圏の中の怖さ。そういうのが色々重なっていて。そうですね、やっぱり私が、まさか上司が、自分の上司が、良い方だったんですけど、あんな風に突然亡くなるとも思ってないし、事務所があんな風にパッと片付いて、何も無くなるってことを想像することも勿論、想定していなかったし、コロナもそうだし、父も倒れてから本当にすぐ亡くなってしまったので、そういうのも人生の一部だし、私達の生きている時間っていうのがどれだけ短いか。そういうのも色々含めて描きたかったんですよね。


諏訪:失われていくものというか、別れというか、そういうのがかなり沢山描かれていますね。


山岡:そうですね。カメラを持ち歩くようになって気づいたんですけど、例えば映画の中に出てくる私がよく行っていたお店があるんですけど、そこもあの時はああいう形をしていて、ああいうスタッフがいたんですけど、今は私は仲良くしていた人達はもう辞めているし、ああいう店ではないし、映画の中に映っているものの殆どは前と同じ形ではなくなっていて、それだけ私達の日常というのは変わっていく事っていうのが起きてことに気付いて。やっぱり私たちが日常で、前と同じ時間っていうのは本当に1つもなくて。そういう風に何か変化を繰り返して、海の波のように日々、一見同じ様だけど変わっているっていう事が凄く実感したんですよね。撮りながらですけど。


諏訪:そういう視点が、山岡さん 個人の物語なんだけども、それは多分誰にでもある。誰もが今、自分が当たり前だと思っている現実っていうのは、やがては消えてしまうかも知れないっていうことをね、多分、誰もがそれを生きている訳で。そういう風な広がりっていうものを、この作品がすごく持ち得たんじゃないかな、という風に思うんですよね。


映画から死刑宣告を受ける


山岡:ありがとうございます。多分、みんな変わるんですよ。絶対に。それは避けられないと思います。必ず物事っていうのは終わるし。でも私が車椅子に座って、これは事故があって 21年ですけど、それ以前は普通に歩いていた人だったので、一見車椅子に座っている人って自分とは全然関係ない人に思われてしまうかもしれないですけど、それはもう 事故に遭って受傷した側になって入院したりとかすると、初めて、こういう繋がってる…これだけの多くの人がこういう怪我をして、色んなシビアな、それぞれシビアな現実に飲み込まれて、人生を歩んでるって事に凄く気付かされる。私も怪我をするまで、こういう自分が、まさかこんな中途障害っていうことになるって、みんな思って生きてないですから、だから、そういうこともやっぱり人生と繋がっている。車とか、みんな 部活なり、まあバイクなりに乗ったりすれば、まぁこういう…昔からこの怪我ってあったと思うんですけど、そういうことも知って欲しいし、何かそれも別に大きな悲劇としてでなく、当たり前に、それでも続きが生きられるような社会とか、街の作りも、人々の目も特別視ないで、こういう怪我があって、例えば家の中で高齢者が転んで突然こういう怪我をして、不自由なまま苦しんで亡くなっていく人も沢山いて。私が映画に関わる前の仕事っていうのは脊髄損傷者のNPOで、亡くなっていく会員を会員リストから消していく、そういう作業を担当してたんですけど。 毎回職場に行くと、これだけの方が再生医療が実現しないまま、静かに消えていく。その時に、京橋に週末に気分転換に映画を観に行ったんですよ。アメリカ映画で、とてもいい賞を獲っている、戦う女性が主人公の。その女性の主人公が戦い終えた時、バランスを崩してどっかにぶつかって頸椎損傷になる、呼吸器の。そこで私は画面に見入って、「これからどうなるんだろう?これから人生というものの価値・真価が問われる。どういう決断をするのだろう?」って観ていたら、安楽死させられちゃって。それで「はぁっ⁈」って思って。勿論映画作ってる側の人達っていうのは、私みたいな歩けなくなったっていう症状にない訳ですから、元気に映画を作ってる訳じゃないですか。そこで私が、そういう人達が作ったものに何かヒントを得られると思って来たのがそもそも間違ってたとは思うんですけど。そういう映画の、フィクション映画のスパイスとして使われたことにすごく腹が立って。これだけ沢山の人が静かに消えていく…不本意なまま。それが凄く、心の中ってずっと「えっ?」って疑問に思ってて。だからと言ってすぐ 映画を作ろう、という風には行かなかったんですけど、ずっと心の中に疑問として残ってて。それが結果的にデンマークに行ったことがきっかけで、 自分でも作れる時代になってるということを学んで、それから映画美学校に行って諏訪先生に巡り会う、という流れだったんですけど。


諏訪:有名な映画ですね?


山岡:そうですね。敢えて言わなくても、皆さん、もしかしたら分かってしまうかも知れません。


諏訪:そうね。美学校でペデロ・コスタがきた時も、何か質問してましたよね?


山岡:何か私が変なこと言ってたんでしょうね。きっと。


諏訪:ペデロ・コスタがこないだ、何かのインタビューで言ってたんだけど、映画がどのような結末を迎えようとも、勿論簡単に楽観的な結末を迎える訳にはいかないのかもしれないが、それでも映画はいつかその世界は良くなる可能性があるっていうことを示さなければならないって…。


山岡:私はあの映画を観て、死刑宣告を受けた様に思って…。ヒントを得たいと思って観に来た当事者の人が、死刑宣告を受けて帰っていいのかなっていうのは疑問でしたね。私にとっては。


諏訪:映画が利用してしまったと感じたんですね。


山岡:そういう感じがちょっとして。ちょっと…。もやもやしたっていうだけの話なんですけど、一人の観客として。

「それぞれのやり方で逃げろ」「それぞれのやり方で自分の人生を救え」


諏訪:僕が山岡さんの映画を観てちょっと思い出した言葉があってね。 ゴダールがインタビューで応えているんですね。丁度『勝手に逃げろ/人生』という映画を撮った時。それは、「それぞれのやり方で逃げろ」っていう。


山岡:なるほど。


諏訪:それは、津波の時も言われましたが、「それぞれのやり方で自分の人生を救え」という、そういう意味が込められてると思うんですね。「なぜ人が映画を作るのか。自分の場合はなぜ映画を作るのか分かるんですけど。僕自身はですね、自分が映画を作る理由を説明することが出来ます。僕が映画を作るのは僕自身の映像を見せるためなんだ。そうすれば、時々は誰かがその前で足を止め、僕に関心を持ってくれると言う訳だ。そしてそれは、その誰かがそこに自分の人生を見るからなんだ。自分ではなく、他の誰かによって提出された自分自身の映像を見るからなんだ。だから足を止める。そして、3秒間ぐらいはそれに目をやってくれるという訳だ。これだけでも、もうすでに儲けもんなんだ」という風に言っていて。自分のために映画を作る。でもこれは、結構簡単なことではない。その場合、やっぱりその強度というか、本当に自分がそれを必要としているっていう事の強度が問われるだろうと思うんですよね。で、多分早川さんが観た時に、山岡さんがこう、自分の感情を吐露していくプロセスがあったんだと思うんだけど、そこからさらに深めていったのは、やっぱりそれが本当に自分の必要な映画になるかどうかっていう。そういうプロセスだったんじゃないかと思うんですね。強度が問われるだろうなと。それを、時間をかけて鍛え上げて行ったんじゃないかな。という風に思いましたね。まぁ、ゴダールは言っていることとやっていることが大分違うんで、あんまり信じちゃいけないんですけど、まぁ、僕は印象に残ったんですね、こういうことを言うんだ、と思って。彼は晩年に自画像を撮りましたけど。


山岡:あ、そうなんですか。


諏訪:彼自身による初めて彼の少年期の写真を自分で使いながらね、自画像を撮りました。でも、山岡さん、これを撮ったら、山岡さん自身が随分変わるんじゃないですか?


山岡:大分ねぇ、一体化したと言うか。本当にチューニングが合ってきましたね。


諏訪:チューニングが合うというのは?


山岡:やっぱり、アート系の作業が全然止まってしまった訳じゃないですか。そこの感覚的なものがチューニングが合って来たと。あの、これと同じタイミングで展示も…。黄金町の高架下Site-Aギャラリーという所で、この映画に出てきた自分の過去の作品から2021年と23年にBankART AIRに参加したんですけど、その時に作った作品も同時進行で展示しています。ちゃんとアーツコミッション・ヨコハマが助成についてくれて、本当にありがたいんですけど、設営のプロの方がやって本当にきれいに出来上がったの、皆さんぜひ見て行って下さい。


諏訪:でも、この映画自体がすでにアートの領域ですよね。


山岡:どちらかと言うと、アーティストの人が短い映像作品を作ったりすることがあると思うんですけど、本当にそっちに近いと思うんですよね。ずっと誰かの主観で最初から最後まで走り抜けるというところとかも。だからそういう風に映画好きというか、アートに興味がある人にもぜひ観て頂きたいなと思って。本当にこれを作ることで、またそれを展示して、こういう人様に見てもらうっていう作業をする中で、やっぱり自分自身が進化して来れたな、みたいな。


諏訪:アートとは何かっていうことを問いかけてるって言うところも、この映画の中にはあるんじゃないかと思いましたね。映像の編集も良かったと思うんですよね。


山岡:大丈夫でしたか?


諏訪:映像の編集も、相当、相当これはやっぱり試行錯誤されているだろうな、というのがやっぱり分かりますよね。それは、違うんですよ。ナレーションと一緒で。そこにどれだけの時間が費やされているのかというのは。どうやってそのショットが選ばれているのかというのはね。簡単ではないな、と思いました。


山岡:特にNY時代の映像っていうのは、自分でポンって行ってサッて撮ってくる訳にもいかないので、そこでたまたま知り合った当時NY在住だった日本人のエディターの若い方がいらっしゃって。彼がもう、私が「ここをこうやって撮って来て」というのを全部。


諏訪:あの風景とかですか?


山岡:そうですね。あれがなかったら全然まとまらなかったと思うんですね。凄くラッキーなことに、本当にそういう時に必要な人が助けてくれた…そういう人たちの力が結集して。だからあたかも事故前の映像はあったかのようですけども、実際は写真とか絵しか残ってなくて。これを、どういう風にあたかも過去のように映していくか。凄く悩んで…。でも、こうやって諏訪先生もOK というか、大丈夫じゃない?って言ってくれて、ちょっと安心します、本当に…。映像が残ってるのは、映画美学校で映画とかそういうものに意識し始めてからやっと映像を撮っているんで、なかなか、例えば車に乗り込むシーンとかは全部映ってますけど、「あれがいいね」とああいうのばっかりにすれば良かったのかもしれないけど、実際はそんなことは出来ないんで。


諏訪:そういう必要はないと思いますけどね。


山岡:ありがとうございます。


諏訪:そういうものを見せるだけの映画ではないんでね…。

山岡:結局、全部のものを見てるのは私だけなんですよね。考えてるのも。だから私1人が 結局幹になって、最初から最後までずっと私という幹のところに、葉っぱがそれぞれの所にちょこちょこと生えていて、「最初から最後まで私の視点です、これは」みたいな所から離れられないというか。


諏訪:それは良かったと僕は思いますよ


山岡:良かった…。


諏訪:つまり、だから「私でしかない」ということは反論できない訳ですね。お父さんもお母さんも反論は出来ない訳です、この映画の中では。だけど、だから、山岡さん自身はそこで自分一人で対話しなきゃいけない訳なんです。


山岡:そうなんですよ。


諏訪:そういうものを経てるっていう風に感じる訳ですよね。それを経ていなければ、やっぱり対話がなくなってしまう。実際の対話はないけれども、可能性としてそのことは常に山岡さんの中にある。それが、通過してきた言葉と映像なんだということが分かる。そこは大きな違いなんです、多分。そう思いますよ。


山岡:ありがとうございます!


【2023年12 月7日(木)、横浜シネマリンでの『Maelstromマエルストロム』での諏訪敦彦監督とのアフター・トークの録画から書き起こし、一部加筆修正】

 なぜ、急にブログの更新作業を始めたのか、は、このことを書きたかったからでした。1月中に12月にやった展示や上映について書いておけば良かったのですが、上映と展示が終わって以降は抜け殻になってしまい、投稿遅れのそれらを書いてからだと大分先になってしまうため、先にこの報告を書きます。

 2024年2月5日(月)に、注文していたキネマ旬報2月号増刊ベスト・テンが届きました。事前に結果を聞いてはいましたが、実際にこの目で見ると、嬉しくて何とも言えない気持ちになりました。「5位くらいで喜んでるのか?」と思う人もいるでしょうが、私の映画より上位の4作品は、ベテランがチームで作られ、配給されている作品だと思います。私の映画のように、脚が不自由になった女性がほぼ一人で作った初長編映画が、そのような作品に続いての5位というのは、かなり新しいことなのではないか、と思いました。10位まで、写真も大きめに掲載して頂き、やり遂げた感があり嬉しいです。

 映画に登場する、現在オーストラリア在住のHさんにこのことを報告すると、とても喜んでくれました。彼はオーストラリア人の奥さんとの間に可愛いお子さんを授かり、音楽活動も続けているそうで、新しい生活を着々と築いていっています。Hさん(@mediamediamedia) がInstagramに記載してくれていた文章が、『Maelstromマエルストロム』制作中の私とHさんの様子を上手にまとめていらしたので、転載させて頂くことにしました。

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【映画監督 山岡瑞子さんがずっと作り続けていた作品[Maelstromマエルストロム]がキネマ旬報の2023年ベストテンの文化映画部門で、なんと5位になりました。わたしは山岡さん宅のインテリアの設えや、車椅子での生活に合わせて部屋のレイアウトを少しづつ変えたりするお手伝いを、日本を発つまでかれこれ7年近くやってました。なので、5年半に及ぶ本作の製作過程は横目でチラチラと見てきたわけです。家のこと以外でも色んなところに出かけるのについて行き、ときにはカメラを渡されて撮影したり、インタビュー(カットになったけど)したり、あるいは自分が撮られたりしていました。山岡さんは行動派だけど、反面とても心配性で慎重に物事を進めるので、この作品に関しても例に漏れず本当に色々と悩みながら制作を進めていました。わたしはというと、早く完成させろとか、まぁ好き勝手生意気なことを横でヤァヤァ言いまくっていたわけですが、作品については完成するまで一瞬たりとも絶対に見ないと決めていました。初めての上映会のときに完成版を見て、ゆっくりとしたテンポの編集とそこに張り詰めたひとすじの緊張感に胸がえぐられ、いつも悩み、自問自答しながら自分の人生を反芻していた山岡さんの姿が脳裏に浮かび、5年半というのは山岡さんにとって必要な時間だったのだと納得したわけです。完成させたあとは、「はよ次作ったら?」とか、また好き勝手なことを言ってるわたしですが、じっくり作ったぶん、じっくりと色んなところで広まってくれたらいいなと願っております。

ちなみに、作中でけっこう長い尺で生意気そうに講釈垂れているわたしの姿を拝みたいなんていう、もの好きな方はぜひ劇場へ。

ともかくおめでとうございます、山岡さん。】

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 映画をすでにご覧になって下さった方はお分かりだと思いますが、区の制度を利用して階段のある場所の介助や(もう、そんな力仕事を頼める人がいなくて、現在大変困っております💦)や、家具の組み立てや配置、色んなことをどうにかしてくれました。「脚が動かなくなった上で、自分が住み心地が良いと思うにはどうすればいいか」とかなり悩んでいた時期で、その相談役みたいな役割を快く引き受けてくれたのが、Hさんでした。Hさんがオーストラリアに移住する前、最後に会ったのはいつだろう?と写真を探すと、2022年11月29日に、それまで使っていた洋服ラックが荷重に耐えられなくなって、新しい大容量の可動式の洋服ラックを組み立ててもらったのが最後の日でした。彼が日本を発ってから東京ドキュメンタリー映画祭、NIPPON CONNECTIONやJAPANNUALなどの国内外の映画祭での上映、展示など色々なことがあって、時間の感覚が変ですが、もう1年以上経っていたのですね。Hさんみたいな人の存在が、どれだけ私を救ってくれたか。普通、なかなか出来ないことを、本当によくやってくれました。彼のような友人の助けがあったことをお伝えすることに意味があるように思い、ここに記載させて頂きました。


※『Maelstromマエルストロム』2024年5月10日より、アップリンク吉祥寺にて上映予定。

※ 写真等の無断転載はお控え下さい。


 横浜の伊勢佐木町にある、横浜シネマリンでの『Maelstromマエルストロム』の1週間の先行上映については、当初は初夏にやろうとしていました。また、どうしても上映と同じタイミングで、映画に出てくる留学中に制作した作品たちを、ずっと展示したいと考えてました。でも当初考えていた初夏では、横浜シネマリンの徒歩圏で利用出来るアートスペースの空きはなく、上映を12月にずらしてもらったものの、展示に関してはまだ場所は確定せず、日ノ出町の大岡川周辺にある可能性のある場所をウロウロして、黄金町エリアマネジメントセンターで12月の可能性を探るも、結構お金がかかることに気づき、「今助成を申請中で、もし採用されたらお話を進めましょうね。もし採用されたら、ですけどね。。。」と苦笑いして、とぼとぼと帰路についたりしていました。ですから、BankART AIR SPRINGが始まった4月中は、作品制作と並行してアーツコミッション・ヨコハマのアーティスト・フェローへの応募書類の作成に必死でした。めでたくフェローに採用されたことで、今回の個展を実現することが出来たのでした。

 

 個展をするのは初めての試みです。2002年の事故からアート作品の制作から離れてしまいましたし、アートの分野で繋がれるコミュニティも、私にはアクセシビリティの問題もありますし、なかなか見つけられませんでした。映像編集を学んでから何年もずっとドキュメンタリー映画『Maelstromマエルストロム』の制作に時間を費やしてきたので、NY時代に撮影していた写真を現像し、額装を施したりするというような時間は、本当に至福の時間でした。それらの写真や、その他の大学時代の作品に加え、BankART AIRで最近制作したものの量を考えると、黄金町高架下Site-Aギャラリーを埋められるくらいになることに気付いて一安心。ですが、自力で並行を測ってこれだけの量の作品を設営することは不可能でした。BankART AIRスタッフの皆さんや他のアーティストの方々が「山岡さんの作品設営を依頼できる誰かを見つけないと(いつも周囲にいる人間が手伝えるわけではないから)」と、ご忠告を受けていました。ACYの担当者O氏から、プロの設営師の方をご紹介頂けたことで、不可能が可能になりました。事前に展示プランを共有しなければならなかったので、何度かSite-Aギャラリーに通って、どの壁にどの作品を展示するかイメージを固め、大まかなプランを作成しました。

 

 これらの作品を展示したところで、しばらく制作から離れていた駆け出しであることには変わらないです。それでも、展示という行為をすることで、アート作品制作に挑んでいた事故前の自分と繋がり直したかったのでした。事故で脚が不自由になった2002年から、私は沢山のことを諦めてきました。クローゼットに保管してある当時の作品は、永遠に人に見られることもなく全てゴミになる運命でした。もしそうなったとしたら、戻るために何の努力をしなかった自分のせいです。2002年の卒展の日、「この作品は今後どこかで展示出来るのだろうか?」とうっすら考えていて、その1ヶ月後に事故に遭って帰国を余儀なくされ「NYでアートの勉強をしていた?この車椅子の人が?頭大丈夫?」くらいな立場になりました。私の4年間なんて一蹴されて終わりです。脊髄損傷はかなりの大怪我なので、受傷後数年間はその後遺症とどう付き合うか、どう生活設計するかに振り回されました。それから何年も経ち、BankART AIRに参加させて頂けたことで、過去NYに留学していたり、拠点がNYであるという年上の女性のアーティスト達に出会えたことが、大きな救いになりました。当時の苦労を感覚的に分かってくれる人々です。一歩一歩、元の軌道に戻りたくて日々を重ね、やっと迎えた個展でした。

 

 設営のプロの方をご紹介頂き、一緒に作業するのも初めてですが、とにかく本来進むべき方向で一歩踏み出せたことが嬉しくて嬉しくて。映画の宣伝美術を担当されている女性と一緒に展示のポスターやチラシのデザインを進め、ギャラリーの受付をお願い出来る方にお願いしたり、カメラマンのN氏に一連の記録を依頼したり、その間に映画の試写会をしたりと、バタバタと時間は過ぎていきました。シネマリンでの映画の上映は12/2~8の1週間、展示は12/2~12/10の9日間。前日の12/1を設営日にしたのですが、たった1日で完了出来るのか不安でした。朝9時集合で作業を始めました。プロの設営師のKさんはとても穏やかで、几帳面。整理整頓しながらとても効率的に作業を進めて下さいました。大量の写真はKさんが担当してくれることになり、私は2002年の卒展で展示した400体のペーパードールの作品を再び壁に貼りました。BankART AIRに2021年に初めて参加した時、自分のスペースの壁に貼ったのが帰国して初めて展示した時だったので、これで2回目です。大学の時に設置した際も大きな壁でしたが、今回も当時と同様に大きな壁でした。卒展には今は亡き父も来てくれていました。当時、父を描いたエッチングを、黄金町のプリントスタジオで再度刷ってもらったエッチングを壁の隅に置き、あの時の父の写真も側に貼りました。自分なりの現在の精一杯で作った空間でした。無事に19時には完了し、それぞれ帰宅しました。もっと大変だったと思うのにあっけなく完了し、プロの仕事というのは凄いとしみじみ思いました。

 11月21日、日本外国特派員協会にで、『Maelstromマエルストロム』の試写会と記者会見が行われました。丁度タイミングが、映画関係者や映画ファンの人達が東京FILMEXに集うタイミングでしたので、そんな中に時間を作って駆けつけて下さった方たちの温かさに溢れた、大変想い出深い試写会となりました。

 普段、私はこの試写会には観客側で座っていますので、事前の打ち合わせやスタッフの人々との見せる側としての準備などが初めてでしたので、経験出来て良かったです。また、余分な話を長く話してしまう悪い癖があり、事前に要点を言うことのアドバイスを受け、また会場での質問も「こういう質問があるかもね」と事前に言われていたことで準備が出来ました。

 シネマジャーナルの記者会見の報告記事に会見内容が記載されていますので、以下のリンクを参照頂ければと思います。

 part-1を掲載し、part-2に続くと記載しておきながら、12月の展示と上映のための怒涛の準備に明け暮れ、今まで更新せず申し訳ありませんでした。part-2を先ほど更新し、part-3が今回のウィーンでの上映のための旅についての最終回となります。

 最終日は朝食後、欧州最大級のア-トセンターであるMQ(ミュージアムクォーター)に向かいました。そこでもクリムトやシ-レ、現在活躍する写真家達の写真展を観ることが出来ました。前日間に合わなかった美術史博物館に移動。車椅子のエントランスは裏で、スタッフの介助で入館し、23年前も感動した美しい階段や丸い穴の空いた様なデザインの建物に再会。嬉しい…何ひとつ変わっていない…☺️✨車椅子になってからずっと来れていなかった、来れないと思っていたので嬉しかったです。その後、世界一美しい図書館と言われる国立図書館プルンクザ-ルに向かいました。18世紀前半にバロック建築の巨匠フォン・エアラッハ親子の建築だそうです。凄い…ここまで見て歩き、時間と体力の限界に…。

車椅子になってからも、色んな国や街に行ってみましたが、ウィ-ンはガタガタしてタイヤに良くないと思う古い歩道も一部ありましたが、ほとんどの歩道はスムーズで段差も超えやすく、ゴミも落ちてません。車椅子だとタイヤが触れるので、道が清潔である街は本当に助かります。古い建物も車椅子で大概入れる様に配慮されていて、日本より楽に感じました。ウィ-ンは私が訪れた街の中で1番美しく、安全で、どこで何を買っても食べ物が美味しく、人々が温かいと思いました。街中が博物館の様で見るところが沢山あり、歩いて行ける、もしくは地下鉄で数駅で行けそうです。23年前も美しかったですが、あの頃よりもっと明るく、新旧混在の美しさに磨きがかかっていました。いたタイミングが良い天気で暖かかったのもラッキーだと思います。自分が昔に持っていた街のイメージが崩れなくて良かったです。私にとって、街の色、街の規模感や文化が世界一美しく感じて、今も昔も大好きな街だと確信が持てたことは、有意義でした。自分が1番美しい街だと思う場所にいつかまた戻って、もっと見て歩くのが夢です。もう少し円が強くなればいいのですが…😔💸。

ここ最近の私の海外出張には、飛行機がキャンセルされて延泊を余儀なくされたり、入院したりとトラブルが付き物だったのですが、今回は本当に何のトラブルもなく、素晴らしい滞在が出来ました。もう一度、ずっと行きたいと思っていて、でも自分の不自由さでなかなか実行で出来なかった再訪の夢を叶えて下さった#Japannual 主催者の近藤さんとゲオルグさん夫妻に、心から感謝しています。『Maelstrom』を上映して下さり、ありがとうございました。


昨晩の劇場での上映とト-ク、とっても楽しかったです☺️近藤さんとゲオルグの完璧な采配のおかげで、事前に話す内容を整理して挑むことが出来ました!打ち上げでのオ-ストリアワインもビ-ルも料理も最高でした😋生きてて良かったです🙌💗

「Maelstrom』映の翌日は、#Prater プラ-タ-に行き、『第三の男』に登場する大観覧車Riesenradに。15人は乗れので、車椅子でも問題なく乗れました。この一帯はもともとハプスブルク家の狩猟場だったそうで、横の公園を少し歩くとビアホ-ルがあり、美味しいビ-ルとシュワンツステ-ゼという豚肉料理を映画祭主宰の近藤さんに教えて頂きました。皮がパリパリに焼けていて、大変美味😋エルダーフラワーシロップの水割りも美味しかった…12月2日の黄金町のギャラリーでのオ-プニングパーティーで出そうと思っています。

近藤さんの経営する日本食材屋さん #NipponYa のそばにセセッシオンの金色の月桂樹ド-ム見えたので、その方向に進むとマ-ケットが。ここは23年前に来たことがあるマ-ケットだと、店舗の配置に見覚えがあり、気づきました。セセッシオンにはグスタフ・クリムトの連作壁画『Beethovenfres』があります。「時代にはその芸術を、その芸術にはその自由を」というウィ-ン分離派のスローガンが金色のド-ムの下部に刻まれています。

そこからマリア・テレジエ像の脇にある美術史博物館向かいましたが、入場時間に間に合わず、入るのを諦めて、ブルク公園のモ-ツァルト像を通り、23年前に行ったことのあるカフェ #cafecentralwien に向かいました。作家のペ-タ-アルテンベルクの等身大の人形が飾ってあります。入口に行列が出来ていて、階段なため、別な入口を探してもらうためにタバコ休憩してるスタッフに声をかけて助けもらいました。満席の大盛況。こんな賑やかな感じじゃなかったと思ったけど…。23年前の写真をウェイトレスに見せて確認したけど、同じ店だということでした。夕食はフリタ-テン・ス-プなど、本当に美味しいオ-ストリア料理をご馳走になりました。(part 3に続きます。)

 2023年10月8日、日曜日。爽やかな朝焼けに家を出て、成田に。諸々順調にチェックインや保険加入などを済ませ、23年ぶりにオーストリア航空に乗ってウィーンに向け離陸。13時間座りっぱなしは毎度きついですが、若くて自由だった頃の自分がオーストリア航空で成田からウィーンに向かったことがあり、人々も温かい上に美しい街だなぁと当時も思ったのですが、今回はどう感じるのか不安でした。いつもの様に車椅子の私は空港に到着後、車椅子客の担当が移乗の車椅子を持って来るのを待つので、最後に降ります。そして担当が荷物を取る手伝いをしてくれる際、フランクフルトと同様、布バッグに入ったシャワーチェアが出て来ず。フランクフルトで経験済みなので、担当に別の受け取り場があるはずと促すと、すぐに見つかりました。フランクフルトの担当が荷物の行き先が分からず、迎えに来た映画祭側のアテンドの親子に任せて消えたのは違法だと言って笑っていました。

 順調に出口を出ると、映画祭の近藤さんが待っていて下さいました。彼女は「なぜこんなに出てこないの?」と焦っていたそうで、車椅子は最後に出ることになるとお伝えしておけば良かったと後悔しました。大きめのタクシーのトランクに車椅子、後部座席にトランク2個とシャワーチェアを入れた布バックと近藤さんと家族とが乗り込み、無事、ホテルへ。後部座席の二人が一体どうやって座ったのか、私には謎のままですが。夜になっていましたが、だんだん市街地に入ってきて、本当に久しぶりに見るウィーンは安心感と美しさに溢れていました。これまでも私は、例え車椅子が足になっても、外に出ていくことを諦めたくなくて、これまで欧州で行けそうな街を幾つか訪れて来ましたが、バルセロナでもトリノでもアムステルダムでも、どの街にも得体の知れない怖さを感じました。それは、留学中にいたNYでも多く感じました。そういう怖さは日本の街でもあります。自分にとってウィーンは、例え20年以上経ってもやはり特別な街なんだと感じることが出来ました。

 ホテルに着くと、そこはオペラ座の並びにある高級ホテルでした。ホテルは、決まっていたはずのバリアフリールームが埋まってしまったとのことで、何と、ラッキーにもスイートルームに滞在することになりました。広い!トイレも2ヶ所あり、小さなキッチンまである!こんな場所に滞在するのは初めてなので、広くて嬉しかったです。でも、専用に作られている訳ではないバスルームやトイレを、私が使えるかは心配でした。ホテル内で他に使えそうな場所はなかったため、どうにかして与えられた部屋で対処することに決め、やっと荷物を運んでもらいましたが、また問題に気づきました。主寝室のベッドの高さがかなり高いデザインの上に、家族と同じベッドで寝るのは厳しいと。すると、近藤さんがエキストラベッドを手配してくれました。持ってきてもらうと高さも丁度良く、意外にもキチンとしたスプリングの入ったマットで、リビングの方に設置してもらい、別々の部屋で眠れることになりました。夕食はまだ食べていなかったのですが、日曜日はウィーンでは店はやってないんじゃないかという心配をよそに、近所の深夜1時までやっているソ-セ-ジ屋さんのスタンドに連れて行って下さいました。今回のウィーンの訪問には、映画の上映だけではなく、かつて訪れていた場所に再び訪れるという目標がありました。シュテファン寺院もその一つでしたが、何と近くだそう。数分歩き、私が来たことのある1999年〜2000年の頃より白さを取り戻したというシュテファン寺院に連れて行ってもらいました。夜でも、その白さは分かりました。あの頃より美しくなっていて記憶が上書きされ、嬉しかったです。ホテルは全て徒歩圏内の凄く便利な立地でした。それは憶測ですが、近藤さんが日本映画祭を始める前からこのホテルで日本人観光客のガイドをしてきた繋がりと信用があり、ウィーン入りした監督たちをこのホテルが迎え入れることになったのではないかと思います。近藤さんは信じられないほどきめ細やかに対応して下さいました。この映画祭でウィーンに来れて、この方達に出会えて、本当に良かったと思いました。

 到着の翌日は、早速舞台挨拶があり、もう一人の主催者のゲオルクさんとどんな話をするか打ち合わせがあります。集中してしっかりやらなくてはなりません。またホテルに送って頂き、シャワーを浴びにバスルームへ。バスルームはシャワーの個室とバスタブがあり、最初はシャワーの個室に、日本から持参したシャワーチェアを置こうとしましたが、安全に移乗出来そうもなかったため諦めて、バスタブの両端に広めにあったスペースに移乗して、滑らないように頑張ってシャワーを浴び(家族と一緒で良かった)、初日が終わりました。

(part-2に続く)