5/10(金)から始まったアップリンク吉祥寺での上映も、2週目に入りました。1週目にも、初日に佐々木誠監督、11(土)には安斎肇さん(イラストレーター/アートディレクタ−/ソラミミスト)、12(日)には諏訪敦彦監督、15(水)には翻訳家で詩人のヤリタミサコさん、きくちゆみこさんをお招きして、トーク・イベントを開催し、好評頂きました。

せっかくですので、公開中にトークの一部を公開することにしようと思いまして、諏訪敦彦さんとのアフタートークの模様を、許可を得ましたのでこちらにアップします。ただ、私が最後の大事なところで、ゴダールの『勝手に逃げろ/人生』を『勝手に生きろ/人生』と言い間違えるという大失態を演じてしまいました。恥ずかしい。諏訪先生、申し訳ありません。そこに目をつむって頂ければ、良い話し合いが出来たのではないかなと思います。

もし気になった方は、ぜひ観てみて下さい。

18(土)のアフター・トークは挿入曲の『Oh,so Blue』を作詞/作曲された、ミュージシャンのオシダアヤさんのショート・ライブです!ぜひ聴きにいらして下さい!

2023年12月2日から8日まで、映画『Maelstromマエルストロム』の先行上映を横浜シネマリンでさせて頂いた際、毎日著名なゲストの皆さまに来て頂いていました。私は劇場公開が初めてで、トークなんか不慣れで下手過ぎて、まだ反省ばかりしています。ただ、12月7日にゲスト登壇して下さった諏訪敦彦先生とのトークの際は、諏訪先生が自分の話をすることに不慣れな学生達から話を聞くという、教職も兼ねられていることでだと思うのですが、私の考えていたことを引き出して頂いた内容だと感じ、また、引用して下さったゴダールの言葉も、お聞き出来て良かったと強く印象に残ったので、先生から許可を得て、書き起こしを掲載させて頂くことにしました。【撮影:中川達彦】

諏訪敦彦監督との出会い


山岡:私が在学していたのは、2010年まで映画美学校の京橋校があった最後、途中で無くなっちゃった時でしたね。


諏訪:その後、移転した時もいましたよね?


山岡:移転して…ビルに移った時にいました。


諏訪:その後もね、結構よく上映に来てくれて。何度か折々。編集中だった時ですかね?


山岡:そうなんですよ。一度、慶應大学での先生の上映の時に。その時、本当に煮詰まってて。 先生の上映してる時に行って「困ってるんです」みたいな話をしたような気がします。


諏訪:その時もこれに取り組んでいたの?本当に長い時間…。


山岡:5年半かかりました。


諏訪:ですね。完成したことをまず… おめでとうと言いたいです。


山岡:ありがとうございます!完成しないで遭難する可能性もあったのですが、何とか…。


諏訪:そうですね。何も知らないで今回、観させて頂いたんで。最初、冒頭から山岡さんのナレーションで始まるじゃないですか。最初、ナレーションで色々、こう説明があった上で、どういう風に始まってくるのかな?という風に思いながら観てたんですね。すると、ずーっと山岡さんのナレーションが続いていく訳ですよね。「そういう映画なんだ」ということに、途中から気が付くんですけど。多分、例えば映画美学校とかでドキュメンタリーについて話す時は、まぁ恐らくみんな、極力 ナレーションを避けたい。ナレーションとは常に何かを一方的に説明してしまうから、ナレーションに頼らないで、いかに映像で表現にしてくのかみたいな方に価値がある、という風に思いがちだと思うんですよ。ナレーションを使わないっていう選択をするドキュメンタリー監督も結構いますよね。それはまぁ、観る人に対して言葉というのが強く働きすぎるから、だと思うんですけど。でも、このナレーションをずっと聴いてるとですね、非常に僕たちはどっかに連れて行かれるというか、巻き込まれていくというかですね。恐らく、ナレーション自体は一気に録ってるんですかね?録音自体は…。


山岡:一気に録れないです…。


諏訪:ですよね。ナレーションは普通、最後に映画が完成して、ナレーションは後から入れる感じで。もう全て終わった時点から語られる訳ですよね。だけど、これは多分、テキストもそうだし、時間というのが塗り込められているというか。決してどっか、もう終わった所から、振り返って何かを語ってる訳ではないっていう。だからこう、観客がですね、やっぱり観る側が時間とか流れの中に、こうずっとこう漂っていくように、巻き込まれてるんですね。それは、このテキストを練っていくとか塗り込まれた時間みたいなのが、やっぱり強さをね、持ってると思うね。やっぱりそれは、違うとこだと思うのね。どうでしたか?


山岡:最初は全く違う編集だったんですよね。もっと感情のマグマみたいな。 その時は『PLAN75』の早川千絵監督が観てくれて。その時に彼女が「こういうのにも価値があると思うけど、それを観せる時に山岡さんが凄い注意しないと誤解されちゃうから」みたいな、凄く冷静な、客観的な意見を頂いて、そこから凄く考えて。かつ、カメラを持ち歩くと、どんどん 色んな事件が起きてきたんです。そしたらこれは、怪我をした後の今の私がどういう感情を抱えてるかとか、そんな小さな話じゃなくて、もっと大きな人生全体を描かなきゃいけないっていう方向に変わって。で、私が意識したのは、その時々、生きていた時代に自分は何を考えていたかったことに戻って、その時考えて来たことを最小限の言葉で、かつ凄く客観的に、感情的にぶれずに、その言葉を綴ってみて、どういう言葉だったら この時の気持ちが最小限の言葉で伝わるかなってことを探り始めて。いちいち、ここは決まったなと思ったら、周りが寝静まった深夜に友人からお借りした機材で、自分の声をワンセンテンス録音して、結構私は腹筋利いてないんで、 ナレーションが暗くなっちゃったらもう一度録り直して、書き出してタイムラインにはめて、また新しく書き直したらもう一度っていうことを繰り返してて。そんなこと 5年半やってたんで、もう嫌だと。二度とあの生活はしたくないですね(苦笑)、大変でした。


諏訪:今の声も色んな時間で録音されてる?


山岡:そうなんです。だから、最初、横浜のBankARTのアーティスト・レジデンスに2021年に参加した時に、自分の家だけじゃなくて、周りに人がいる環境で作業してみたいなと思うことで、編集作業を続けていたんですけど。そこで仮編を他のレジデンス・アーティストの人達にスクリーンを使って観て頂いて意見を頂いたんですけど、もう音がバラバラで、その時は私の友人の映画監督の方も来てくれたんで、「山岡さん、あれは完成したら整音に出さなきゃいけないよ」って。「え?整音ってどこに出せばいいの?」って、そこから始まって。全部友人に訊いて、また訊いて、みたいな感じで前に進めてきました。


諏訪:その言葉の選び方というか言葉ひとつ選ぶのに、恐らく色んな時間がかかっている訳ですよね。それがやっぱり、感じられるんですよ。だから映画として聴いているとでね、映画になっていると思う。それは多分、パッと聴いたら分からないかもしれないけど、だけどやっぱり違うんですよね。そこにどれだけ時間かかったのかというのがね。だからなんか、本当に出来事に出会っていくような感じがするんですよ、自分達が。それはなかなか、そう簡単には出来ない…と思います、ええ。

山岡:私も自分が事故に遭うとか、出口がない沼にハマって…。例えば病院で車椅子でわぁって走るその走行音が、わぁって聴こえる時があって。それは整音の人が避けたがったんですけど、「これは私が感じた恐怖なんで、これを大きくして下さい」みたいな。車椅子の走行音なだけなんですけど「これは本当の怖さなんです、私の」って言って。敢えて。私の中では『シャイニング』の怖さくらい。生活圏の中の怖さ。そういうのが色々重なっていて。そうですね、やっぱり私が、まさか上司が、自分の上司が、良い方だったんですけど、あんな風に突然亡くなるとも思ってないし、事務所があんな風にパッと片付いて、何も無くなるってことを想像することも勿論、想定していなかったし、コロナもそうだし、父も倒れてから本当にすぐ亡くなってしまったので、そういうのも人生の一部だし、私達の生きている時間っていうのがどれだけ短いか。そういうのも色々含めて描きたかったんですよね。


諏訪:失われていくものというか、別れというか、そういうのがかなり沢山描かれていますね。


山岡:そうですね。カメラを持ち歩くようになって気づいたんですけど、例えば映画の中に出てくる私がよく行っていたお店があるんですけど、そこもあの時はああいう形をしていて、ああいうスタッフがいたんですけど、今は私は仲良くしていた人達はもう辞めているし、ああいう店ではないし、映画の中に映っているものの殆どは前と同じ形ではなくなっていて、それだけ私達の日常というのは変わっていく事っていうのが起きてことに気付いて。やっぱり私たちが日常で、前と同じ時間っていうのは本当に1つもなくて。そういう風に何か変化を繰り返して、海の波のように日々、一見同じ様だけど変わっているっていう事が凄く実感したんですよね。撮りながらですけど。


諏訪:そういう視点が、山岡さん 個人の物語なんだけども、それは多分誰にでもある。誰もが今、自分が当たり前だと思っている現実っていうのは、やがては消えてしまうかも知れないっていうことをね、多分、誰もがそれを生きている訳で。そういう風な広がりっていうものを、この作品がすごく持ち得たんじゃないかな、という風に思うんですよね。


映画から死刑宣告を受ける


山岡:ありがとうございます。多分、みんな変わるんですよ。絶対に。それは避けられないと思います。必ず物事っていうのは終わるし。でも私が車椅子に座って、これは事故があって 21年ですけど、それ以前は普通に歩いていた人だったので、一見車椅子に座っている人って自分とは全然関係ない人に思われてしまうかもしれないですけど、それはもう 事故に遭って受傷した側になって入院したりとかすると、初めて、こういう繋がってる…これだけの多くの人がこういう怪我をして、色んなシビアな、それぞれシビアな現実に飲み込まれて、人生を歩んでるって事に凄く気付かされる。私も怪我をするまで、こういう自分が、まさかこんな中途障害っていうことになるって、みんな思って生きてないですから、だから、そういうこともやっぱり人生と繋がっている。車とか、みんな 部活なり、まあバイクなりに乗ったりすれば、まぁこういう…昔からこの怪我ってあったと思うんですけど、そういうことも知って欲しいし、何かそれも別に大きな悲劇としてでなく、当たり前に、それでも続きが生きられるような社会とか、街の作りも、人々の目も特別視ないで、こういう怪我があって、例えば家の中で高齢者が転んで突然こういう怪我をして、不自由なまま苦しんで亡くなっていく人も沢山いて。私が映画に関わる前の仕事っていうのは脊髄損傷者のNPOで、亡くなっていく会員を会員リストから消していく、そういう作業を担当してたんですけど。 毎回職場に行くと、これだけの方が再生医療が実現しないまま、静かに消えていく。その時に、京橋に週末に気分転換に映画を観に行ったんですよ。アメリカ映画で、とてもいい賞を獲っている、戦う女性が主人公の。その女性の主人公が戦い終えた時、バランスを崩してどっかにぶつかって頸椎損傷になる、呼吸器の。そこで私は画面に見入って、「これからどうなるんだろう?これから人生というものの価値・真価が問われる。どういう決断をするのだろう?」って観ていたら、安楽死させられちゃって。それで「はぁっ⁈」って思って。勿論映画作ってる側の人達っていうのは、私みたいな歩けなくなったっていう症状にない訳ですから、元気に映画を作ってる訳じゃないですか。そこで私が、そういう人達が作ったものに何かヒントを得られると思って来たのがそもそも間違ってたとは思うんですけど。そういう映画の、フィクション映画のスパイスとして使われたことにすごく腹が立って。これだけ沢山の人が静かに消えていく…不本意なまま。それが凄く、心の中ってずっと「えっ?」って疑問に思ってて。だからと言ってすぐ 映画を作ろう、という風には行かなかったんですけど、ずっと心の中に疑問として残ってて。それが結果的にデンマークに行ったことがきっかけで、 自分でも作れる時代になってるということを学んで、それから映画美学校に行って諏訪先生に巡り会う、という流れだったんですけど。


諏訪:有名な映画ですね?


山岡:そうですね。敢えて言わなくても、皆さん、もしかしたら分かってしまうかも知れません。


諏訪:そうね。美学校でペデロ・コスタがきた時も、何か質問してましたよね?


山岡:何か私が変なこと言ってたんでしょうね。きっと。


諏訪:ペデロ・コスタがこないだ、何かのインタビューで言ってたんだけど、映画がどのような結末を迎えようとも、勿論簡単に楽観的な結末を迎える訳にはいかないのかもしれないが、それでも映画はいつかその世界は良くなる可能性があるっていうことを示さなければならないって…。


山岡:私はあの映画を観て、死刑宣告を受けた様に思って…。ヒントを得たいと思って観に来た当事者の人が、死刑宣告を受けて帰っていいのかなっていうのは疑問でしたね。私にとっては。


諏訪:映画が利用してしまったと感じたんですね。


山岡:そういう感じがちょっとして。ちょっと…。もやもやしたっていうだけの話なんですけど、一人の観客として。

「それぞれのやり方で逃げろ」「それぞれのやり方で自分の人生を救え」


諏訪:僕が山岡さんの映画を観てちょっと思い出した言葉があってね。 ゴダールがインタビューで応えているんですね。丁度『勝手に逃げろ/人生』という映画を撮った時。それは、「それぞれのやり方で逃げろ」っていう。


山岡:なるほど。


諏訪:それは、津波の時も言われましたが、「それぞれのやり方で自分の人生を救え」という、そういう意味が込められてると思うんですね。「なぜ人が映画を作るのか。自分の場合はなぜ映画を作るのか分かるんですけど。僕自身はですね、自分が映画を作る理由を説明することが出来ます。僕が映画を作るのは僕自身の映像を見せるためなんだ。そうすれば、時々は誰かがその前で足を止め、僕に関心を持ってくれると言う訳だ。そしてそれは、その誰かがそこに自分の人生を見るからなんだ。自分ではなく、他の誰かによって提出された自分自身の映像を見るからなんだ。だから足を止める。そして、3秒間ぐらいはそれに目をやってくれるという訳だ。これだけでも、もうすでに儲けもんなんだ」という風に言っていて。自分のために映画を作る。でもこれは、結構簡単なことではない。その場合、やっぱりその強度というか、本当に自分がそれを必要としているっていう事の強度が問われるだろうと思うんですよね。で、多分早川さんが観た時に、山岡さんがこう、自分の感情を吐露していくプロセスがあったんだと思うんだけど、そこからさらに深めていったのは、やっぱりそれが本当に自分の必要な映画になるかどうかっていう。そういうプロセスだったんじゃないかと思うんですね。強度が問われるだろうなと。それを、時間をかけて鍛え上げて行ったんじゃないかな。という風に思いましたね。まぁ、ゴダールは言っていることとやっていることが大分違うんで、あんまり信じちゃいけないんですけど、まぁ、僕は印象に残ったんですね、こういうことを言うんだ、と思って。彼は晩年に自画像を撮りましたけど。


山岡:あ、そうなんですか。


諏訪:彼自身による初めて彼の少年期の写真を自分で使いながらね、自画像を撮りました。でも、山岡さん、これを撮ったら、山岡さん自身が随分変わるんじゃないですか?


山岡:大分ねぇ、一体化したと言うか。本当にチューニングが合ってきましたね。


諏訪:チューニングが合うというのは?


山岡:やっぱり、アート系の作業が全然止まってしまった訳じゃないですか。そこの感覚的なものがチューニングが合って来たと。あの、これと同じタイミングで展示も…。黄金町の高架下Site-Aギャラリーという所で、この映画に出てきた自分の過去の作品から2021年と23年にBankART AIRに参加したんですけど、その時に作った作品も同時進行で展示しています。ちゃんとアーツコミッション・ヨコハマが助成についてくれて、本当にありがたいんですけど、設営のプロの方がやって本当にきれいに出来上がったの、皆さんぜひ見て行って下さい。


諏訪:でも、この映画自体がすでにアートの領域ですよね。


山岡:どちらかと言うと、アーティストの人が短い映像作品を作ったりすることがあると思うんですけど、本当にそっちに近いと思うんですよね。ずっと誰かの主観で最初から最後まで走り抜けるというところとかも。だからそういう風に映画好きというか、アートに興味がある人にもぜひ観て頂きたいなと思って。本当にこれを作ることで、またそれを展示して、こういう人様に見てもらうっていう作業をする中で、やっぱり自分自身が進化して来れたな、みたいな。


諏訪:アートとは何かっていうことを問いかけてるって言うところも、この映画の中にはあるんじゃないかと思いましたね。映像の編集も良かったと思うんですよね。


山岡:大丈夫でしたか?


諏訪:映像の編集も、相当、相当これはやっぱり試行錯誤されているだろうな、というのがやっぱり分かりますよね。それは、違うんですよ。ナレーションと一緒で。そこにどれだけの時間が費やされているのかというのは。どうやってそのショットが選ばれているのかというのはね。簡単ではないな、と思いました。


山岡:特にNY時代の映像っていうのは、自分でポンって行ってサッて撮ってくる訳にもいかないので、そこでたまたま知り合った当時NY在住だった日本人のエディターの若い方がいらっしゃって。彼がもう、私が「ここをこうやって撮って来て」というのを全部。


諏訪:あの風景とかですか?


山岡:そうですね。あれがなかったら全然まとまらなかったと思うんですね。凄くラッキーなことに、本当にそういう時に必要な人が助けてくれた…そういう人たちの力が結集して。だからあたかも事故前の映像はあったかのようですけども、実際は写真とか絵しか残ってなくて。これを、どういう風にあたかも過去のように映していくか。凄く悩んで…。でも、こうやって諏訪先生もOK というか、大丈夫じゃない?って言ってくれて、ちょっと安心します、本当に…。映像が残ってるのは、映画美学校で映画とかそういうものに意識し始めてからやっと映像を撮っているんで、なかなか、例えば車に乗り込むシーンとかは全部映ってますけど、「あれがいいね」とああいうのばっかりにすれば良かったのかもしれないけど、実際はそんなことは出来ないんで。


諏訪:そういう必要はないと思いますけどね。


山岡:ありがとうございます。


諏訪:そういうものを見せるだけの映画ではないんでね…。

山岡:結局、全部のものを見てるのは私だけなんですよね。考えてるのも。だから私1人が 結局幹になって、最初から最後までずっと私という幹のところに、葉っぱがそれぞれの所にちょこちょこと生えていて、「最初から最後まで私の視点です、これは」みたいな所から離れられないというか。


諏訪:それは良かったと僕は思いますよ


山岡:良かった…。


諏訪:つまり、だから「私でしかない」ということは反論できない訳ですね。お父さんもお母さんも反論は出来ない訳です、この映画の中では。だけど、だから、山岡さん自身はそこで自分一人で対話しなきゃいけない訳なんです。


山岡:そうなんですよ。


諏訪:そういうものを経てるっていう風に感じる訳ですよね。それを経ていなければ、やっぱり対話がなくなってしまう。実際の対話はないけれども、可能性としてそのことは常に山岡さんの中にある。それが、通過してきた言葉と映像なんだということが分かる。そこは大きな違いなんです、多分。そう思いますよ。


山岡:ありがとうございます!


【2023年12 月7日(木)、横浜シネマリンでの『Maelstromマエルストロム』での諏訪敦彦監督とのアフター・トークの録画から書き起こし、一部加筆修正】

 なぜ、急にブログの更新作業を始めたのか、は、このことを書きたかったからでした。1月中に12月にやった展示や上映について書いておけば良かったのですが、上映と展示が終わって以降は抜け殻になってしまい、投稿遅れのそれらを書いてからだと大分先になってしまうため、先にこの報告を書きます。

 2024年2月5日(月)に、注文していたキネマ旬報2月号増刊ベスト・テンが届きました。事前に結果を聞いてはいましたが、実際にこの目で見ると、嬉しくて何とも言えない気持ちになりました。「5位くらいで喜んでるのか?」と思う人もいるでしょうが、私の映画より上位の4作品は、ベテランがチームで作られ、配給されている作品だと思います。私の映画のように、脚が不自由になった女性がほぼ一人で作った初長編映画が、そのような作品に続いての5位というのは、かなり新しいことなのではないか、と思いました。10位まで、写真も大きめに掲載して頂き、やり遂げた感があり嬉しいです。

 映画に登場する、現在オーストラリア在住のHさんにこのことを報告すると、とても喜んでくれました。彼はオーストラリア人の奥さんとの間に可愛いお子さんを授かり、音楽活動も続けているそうで、新しい生活を着々と築いていっています。Hさん(@mediamediamedia) がInstagramに記載してくれていた文章が、『Maelstromマエルストロム』制作中の私とHさんの様子を上手にまとめていらしたので、転載させて頂くことにしました。

                     ◆

【映画監督 山岡瑞子さんがずっと作り続けていた作品[Maelstromマエルストロム]がキネマ旬報の2023年ベストテンの文化映画部門で、なんと5位になりました。わたしは山岡さん宅のインテリアの設えや、車椅子での生活に合わせて部屋のレイアウトを少しづつ変えたりするお手伝いを、日本を発つまでかれこれ7年近くやってました。なので、5年半に及ぶ本作の製作過程は横目でチラチラと見てきたわけです。家のこと以外でも色んなところに出かけるのについて行き、ときにはカメラを渡されて撮影したり、インタビュー(カットになったけど)したり、あるいは自分が撮られたりしていました。山岡さんは行動派だけど、反面とても心配性で慎重に物事を進めるので、この作品に関しても例に漏れず本当に色々と悩みながら制作を進めていました。わたしはというと、早く完成させろとか、まぁ好き勝手生意気なことを横でヤァヤァ言いまくっていたわけですが、作品については完成するまで一瞬たりとも絶対に見ないと決めていました。初めての上映会のときに完成版を見て、ゆっくりとしたテンポの編集とそこに張り詰めたひとすじの緊張感に胸がえぐられ、いつも悩み、自問自答しながら自分の人生を反芻していた山岡さんの姿が脳裏に浮かび、5年半というのは山岡さんにとって必要な時間だったのだと納得したわけです。完成させたあとは、「はよ次作ったら?」とか、また好き勝手なことを言ってるわたしですが、じっくり作ったぶん、じっくりと色んなところで広まってくれたらいいなと願っております。

ちなみに、作中でけっこう長い尺で生意気そうに講釈垂れているわたしの姿を拝みたいなんていう、もの好きな方はぜひ劇場へ。

ともかくおめでとうございます、山岡さん。】

                      ◆

 映画をすでにご覧になって下さった方はお分かりだと思いますが、区の制度を利用して階段のある場所の介助や(もう、そんな力仕事を頼める人がいなくて、現在大変困っております💦)や、家具の組み立てや配置、色んなことをどうにかしてくれました。「脚が動かなくなった上で、自分が住み心地が良いと思うにはどうすればいいか」とかなり悩んでいた時期で、その相談役みたいな役割を快く引き受けてくれたのが、Hさんでした。Hさんがオーストラリアに移住する前、最後に会ったのはいつだろう?と写真を探すと、2022年11月29日に、それまで使っていた洋服ラックが荷重に耐えられなくなって、新しい大容量の可動式の洋服ラックを組み立ててもらったのが最後の日でした。彼が日本を発ってから東京ドキュメンタリー映画祭、NIPPON CONNECTIONやJAPANNUALなどの国内外の映画祭での上映、展示など色々なことがあって、時間の感覚が変ですが、もう1年以上経っていたのですね。Hさんみたいな人の存在が、どれだけ私を救ってくれたか。普通、なかなか出来ないことを、本当によくやってくれました。彼のような友人の助けがあったことをお伝えすることに意味があるように思い、ここに記載させて頂きました。


※『Maelstromマエルストロム』2024年5月10日より、アップリンク吉祥寺にて上映予定。

※ 写真等の無断転載はお控え下さい。


 横浜の伊勢佐木町にある、横浜シネマリンでの『Maelstromマエルストロム』の1週間の先行上映については、当初は初夏にやろうとしていました。また、どうしても上映と同じタイミングで、映画に出てくる留学中に制作した作品たちを、ずっと展示したいと考えてました。でも当初考えていた初夏では、横浜シネマリンの徒歩圏で利用出来るアートスペースの空きはなく、上映を12月にずらしてもらったものの、展示に関してはまだ場所は確定せず、日ノ出町の大岡川周辺にある可能性のある場所をウロウロして、黄金町エリアマネジメントセンターで12月の可能性を探るも、結構お金がかかることに気づき、「今助成を申請中で、もし採用されたらお話を進めましょうね。もし採用されたら、ですけどね。。。」と苦笑いして、とぼとぼと帰路についたりしていました。ですから、BankART AIR SPRINGが始まった4月中は、作品制作と並行してアーツコミッション・ヨコハマのアーティスト・フェローへの応募書類の作成に必死でした。めでたくフェローに採用されたことで、今回の個展を実現することが出来たのでした。

 

 個展をするのは初めての試みです。2002年の事故からアート作品の制作から離れてしまいましたし、アートの分野で繋がれるコミュニティも、私にはアクセシビリティの問題もありますし、なかなか見つけられませんでした。映像編集を学んでから何年もずっとドキュメンタリー映画『Maelstromマエルストロム』の制作に時間を費やしてきたので、NY時代に撮影していた写真を現像し、額装を施したりするというような時間は、本当に至福の時間でした。それらの写真や、その他の大学時代の作品に加え、BankART AIRで最近制作したものの量を考えると、黄金町高架下Site-Aギャラリーを埋められるくらいになることに気付いて一安心。ですが、自力で並行を測ってこれだけの量の作品を設営することは不可能でした。BankART AIRスタッフの皆さんや他のアーティストの方々が「山岡さんの作品設営を依頼できる誰かを見つけないと(いつも周囲にいる人間が手伝えるわけではないから)」と、ご忠告を受けていました。ACYの担当者O氏から、プロの設営師の方をご紹介頂けたことで、不可能が可能になりました。事前に展示プランを共有しなければならなかったので、何度かSite-Aギャラリーに通って、どの壁にどの作品を展示するかイメージを固め、大まかなプランを作成しました。

 

 これらの作品を展示したところで、しばらく制作から離れていた駆け出しであることには変わらないです。それでも、展示という行為をすることで、アート作品制作に挑んでいた事故前の自分と繋がり直したかったのでした。事故で脚が不自由になった2002年から、私は沢山のことを諦めてきました。クローゼットに保管してある当時の作品は、永遠に人に見られることもなく全てゴミになる運命でした。もしそうなったとしたら、戻るために何の努力をしなかった自分のせいです。2002年の卒展の日、「この作品は今後どこかで展示出来るのだろうか?」とうっすら考えていて、その1ヶ月後に事故に遭って帰国を余儀なくされ「NYでアートの勉強をしていた?この車椅子の人が?頭大丈夫?」くらいな立場になりました。私の4年間なんて一蹴されて終わりです。脊髄損傷はかなりの大怪我なので、受傷後数年間はその後遺症とどう付き合うか、どう生活設計するかに振り回されました。それから何年も経ち、BankART AIRに参加させて頂けたことで、過去NYに留学していたり、拠点がNYであるという年上の女性のアーティスト達に出会えたことが、大きな救いになりました。当時の苦労を感覚的に分かってくれる人々です。一歩一歩、元の軌道に戻りたくて日々を重ね、やっと迎えた個展でした。

 

 設営のプロの方をご紹介頂き、一緒に作業するのも初めてですが、とにかく本来進むべき方向で一歩踏み出せたことが嬉しくて嬉しくて。映画の宣伝美術を担当されている女性と一緒に展示のポスターやチラシのデザインを進め、ギャラリーの受付をお願い出来る方にお願いしたり、カメラマンのN氏に一連の記録を依頼したり、その間に映画の試写会をしたりと、バタバタと時間は過ぎていきました。シネマリンでの映画の上映は12/2~8の1週間、展示は12/2~12/10の9日間。前日の12/1を設営日にしたのですが、たった1日で完了出来るのか不安でした。朝9時集合で作業を始めました。プロの設営師のKさんはとても穏やかで、几帳面。整理整頓しながらとても効率的に作業を進めて下さいました。大量の写真はKさんが担当してくれることになり、私は2002年の卒展で展示した400体のペーパードールの作品を再び壁に貼りました。BankART AIRに2021年に初めて参加した時、自分のスペースの壁に貼ったのが帰国して初めて展示した時だったので、これで2回目です。大学の時に設置した際も大きな壁でしたが、今回も当時と同様に大きな壁でした。卒展には今は亡き父も来てくれていました。当時、父を描いたエッチングを、黄金町のプリントスタジオで再度刷ってもらったエッチングを壁の隅に置き、あの時の父の写真も側に貼りました。自分なりの現在の精一杯で作った空間でした。無事に19時には完了し、それぞれ帰宅しました。もっと大変だったと思うのにあっけなく完了し、プロの仕事というのは凄いとしみじみ思いました。

 11月21日、日本外国特派員協会にで、『Maelstromマエルストロム』の試写会と記者会見が行われました。丁度タイミングが、映画関係者や映画ファンの人達が東京FILMEXに集うタイミングでしたので、そんな中に時間を作って駆けつけて下さった方たちの温かさに溢れた、大変想い出深い試写会となりました。

 普段、私はこの試写会には観客側で座っていますので、事前の打ち合わせやスタッフの人々との見せる側としての準備などが初めてでしたので、経験出来て良かったです。また、余分な話を長く話してしまう悪い癖があり、事前に要点を言うことのアドバイスを受け、また会場での質問も「こういう質問があるかもね」と事前に言われていたことで準備が出来ました。

 シネマジャーナルの記者会見の報告記事に会見内容が記載されていますので、以下のリンクを参照頂ければと思います。

 part-1を掲載し、part-2に続くと記載しておきながら、12月の展示と上映のための怒涛の準備に明け暮れ、今まで更新せず申し訳ありませんでした。part-2を先ほど更新し、part-3が今回のウィーンでの上映のための旅についての最終回となります。

 最終日は朝食後、欧州最大級のア-トセンターであるMQ(ミュージアムクォーター)に向かいました。そこでもクリムトやシ-レ、現在活躍する写真家達の写真展を観ることが出来ました。前日間に合わなかった美術史博物館に移動。車椅子のエントランスは裏で、スタッフの介助で入館し、23年前も感動した美しい階段や丸い穴の空いた様なデザインの建物に再会。嬉しい…何ひとつ変わっていない…☺️✨車椅子になってからずっと来れていなかった、来れないと思っていたので嬉しかったです。その後、世界一美しい図書館と言われる国立図書館プルンクザ-ルに向かいました。18世紀前半にバロック建築の巨匠フォン・エアラッハ親子の建築だそうです。凄い…ここまで見て歩き、時間と体力の限界に…。

車椅子になってからも、色んな国や街に行ってみましたが、ウィ-ンはガタガタしてタイヤに良くないと思う古い歩道も一部ありましたが、ほとんどの歩道はスムーズで段差も超えやすく、ゴミも落ちてません。車椅子だとタイヤが触れるので、道が清潔である街は本当に助かります。古い建物も車椅子で大概入れる様に配慮されていて、日本より楽に感じました。ウィ-ンは私が訪れた街の中で1番美しく、安全で、どこで何を買っても食べ物が美味しく、人々が温かいと思いました。街中が博物館の様で見るところが沢山あり、歩いて行ける、もしくは地下鉄で数駅で行けそうです。23年前も美しかったですが、あの頃よりもっと明るく、新旧混在の美しさに磨きがかかっていました。いたタイミングが良い天気で暖かかったのもラッキーだと思います。自分が昔に持っていた街のイメージが崩れなくて良かったです。私にとって、街の色、街の規模感や文化が世界一美しく感じて、今も昔も大好きな街だと確信が持てたことは、有意義でした。自分が1番美しい街だと思う場所にいつかまた戻って、もっと見て歩くのが夢です。もう少し円が強くなればいいのですが…😔💸。

ここ最近の私の海外出張には、飛行機がキャンセルされて延泊を余儀なくされたり、入院したりとトラブルが付き物だったのですが、今回は本当に何のトラブルもなく、素晴らしい滞在が出来ました。もう一度、ずっと行きたいと思っていて、でも自分の不自由さでなかなか実行で出来なかった再訪の夢を叶えて下さった#Japannual 主催者の近藤さんとゲオルグさん夫妻に、心から感謝しています。『Maelstrom』を上映して下さり、ありがとうございました。


昨晩の劇場での上映とト-ク、とっても楽しかったです☺️近藤さんとゲオルグの完璧な采配のおかげで、事前に話す内容を整理して挑むことが出来ました!打ち上げでのオ-ストリアワインもビ-ルも料理も最高でした😋生きてて良かったです🙌💗

「Maelstrom』映の翌日は、#Prater プラ-タ-に行き、『第三の男』に登場する大観覧車Riesenradに。15人は乗れので、車椅子でも問題なく乗れました。この一帯はもともとハプスブルク家の狩猟場だったそうで、横の公園を少し歩くとビアホ-ルがあり、美味しいビ-ルとシュワンツステ-ゼという豚肉料理を映画祭主宰の近藤さんに教えて頂きました。皮がパリパリに焼けていて、大変美味😋エルダーフラワーシロップの水割りも美味しかった…12月2日の黄金町のギャラリーでのオ-プニングパーティーで出そうと思っています。

近藤さんの経営する日本食材屋さん #NipponYa のそばにセセッシオンの金色の月桂樹ド-ム見えたので、その方向に進むとマ-ケットが。ここは23年前に来たことがあるマ-ケットだと、店舗の配置に見覚えがあり、気づきました。セセッシオンにはグスタフ・クリムトの連作壁画『Beethovenfres』があります。「時代にはその芸術を、その芸術にはその自由を」というウィ-ン分離派のスローガンが金色のド-ムの下部に刻まれています。

そこからマリア・テレジエ像の脇にある美術史博物館向かいましたが、入場時間に間に合わず、入るのを諦めて、ブルク公園のモ-ツァルト像を通り、23年前に行ったことのあるカフェ #cafecentralwien に向かいました。作家のペ-タ-アルテンベルクの等身大の人形が飾ってあります。入口に行列が出来ていて、階段なため、別な入口を探してもらうためにタバコ休憩してるスタッフに声をかけて助けもらいました。満席の大盛況。こんな賑やかな感じじゃなかったと思ったけど…。23年前の写真をウェイトレスに見せて確認したけど、同じ店だということでした。夕食はフリタ-テン・ス-プなど、本当に美味しいオ-ストリア料理をご馳走になりました。(part 3に続きます。)

 2023年10月8日、日曜日。爽やかな朝焼けに家を出て、成田に。諸々順調にチェックインや保険加入などを済ませ、23年ぶりにオーストリア航空に乗ってウィーンに向け離陸。13時間座りっぱなしは毎度きついですが、若くて自由だった頃の自分がオーストリア航空で成田からウィーンに向かったことがあり、人々も温かい上に美しい街だなぁと当時も思ったのですが、今回はどう感じるのか不安でした。いつもの様に車椅子の私は空港に到着後、車椅子客の担当が移乗の車椅子を持って来るのを待つので、最後に降ります。そして担当が荷物を取る手伝いをしてくれる際、フランクフルトと同様、布バッグに入ったシャワーチェアが出て来ず。フランクフルトで経験済みなので、担当に別の受け取り場があるはずと促すと、すぐに見つかりました。フランクフルトの担当が荷物の行き先が分からず、迎えに来た映画祭側のアテンドの親子に任せて消えたのは違法だと言って笑っていました。

 順調に出口を出ると、映画祭の近藤さんが待っていて下さいました。彼女は「なぜこんなに出てこないの?」と焦っていたそうで、車椅子は最後に出ることになるとお伝えしておけば良かったと後悔しました。大きめのタクシーのトランクに車椅子、後部座席にトランク2個とシャワーチェアを入れた布バックと近藤さんと家族とが乗り込み、無事、ホテルへ。後部座席の二人が一体どうやって座ったのか、私には謎のままですが。夜になっていましたが、だんだん市街地に入ってきて、本当に久しぶりに見るウィーンは安心感と美しさに溢れていました。これまでも私は、例え車椅子が足になっても、外に出ていくことを諦めたくなくて、これまで欧州で行けそうな街を幾つか訪れて来ましたが、バルセロナでもトリノでもアムステルダムでも、どの街にも得体の知れない怖さを感じました。それは、留学中にいたNYでも多く感じました。そういう怖さは日本の街でもあります。自分にとってウィーンは、例え20年以上経ってもやはり特別な街なんだと感じることが出来ました。

 ホテルに着くと、そこはオペラ座の並びにある高級ホテルでした。ホテルは、決まっていたはずのバリアフリールームが埋まってしまったとのことで、何と、ラッキーにもスイートルームに滞在することになりました。広い!トイレも2ヶ所あり、小さなキッチンまである!こんな場所に滞在するのは初めてなので、広くて嬉しかったです。でも、専用に作られている訳ではないバスルームやトイレを、私が使えるかは心配でした。ホテル内で他に使えそうな場所はなかったため、どうにかして与えられた部屋で対処することに決め、やっと荷物を運んでもらいましたが、また問題に気づきました。主寝室のベッドの高さがかなり高いデザインの上に、家族と同じベッドで寝るのは厳しいと。すると、近藤さんがエキストラベッドを手配してくれました。持ってきてもらうと高さも丁度良く、意外にもキチンとしたスプリングの入ったマットで、リビングの方に設置してもらい、別々の部屋で眠れることになりました。夕食はまだ食べていなかったのですが、日曜日はウィーンでは店はやってないんじゃないかという心配をよそに、近所の深夜1時までやっているソ-セ-ジ屋さんのスタンドに連れて行って下さいました。今回のウィーンの訪問には、映画の上映だけではなく、かつて訪れていた場所に再び訪れるという目標がありました。シュテファン寺院もその一つでしたが、何と近くだそう。数分歩き、私が来たことのある1999年〜2000年の頃より白さを取り戻したというシュテファン寺院に連れて行ってもらいました。夜でも、その白さは分かりました。あの頃より美しくなっていて記憶が上書きされ、嬉しかったです。ホテルは全て徒歩圏内の凄く便利な立地でした。それは憶測ですが、近藤さんが日本映画祭を始める前からこのホテルで日本人観光客のガイドをしてきた繋がりと信用があり、ウィーン入りした監督たちをこのホテルが迎え入れることになったのではないかと思います。近藤さんは信じられないほどきめ細やかに対応して下さいました。この映画祭でウィーンに来れて、この方達に出会えて、本当に良かったと思いました。

 到着の翌日は、早速舞台挨拶があり、もう一人の主催者のゲオルクさんとどんな話をするか打ち合わせがあります。集中してしっかりやらなくてはなりません。またホテルに送って頂き、シャワーを浴びにバスルームへ。バスルームはシャワーの個室とバスタブがあり、最初はシャワーの個室に、日本から持参したシャワーチェアを置こうとしましたが、安全に移乗出来そうもなかったため諦めて、バスタブの両端に広めにあったスペースに移乗して、滑らないように頑張ってシャワーを浴び(家族と一緒で良かった)、初日が終わりました。

(part-2に続く)

  2023年の6/6~11に開催されたフランクフルトのニッポン・コネクション映画祭に行く前の上映のお知らせから、バタバタしていて大分間を開けての更新となり、申し訳ありません。6月の記憶を呼び覚まして、渡独前の準備から記憶に残ったことを書いてみます。

 上映が決まってから渡独まで、日程やどういう滞在(自分でホテルを探すのか、上映はいつで何泊しなければならないのか、航空券はどういう日程で予約すればいいのか)なのか詳細がなかなか分からなくて、フランクフルトには東横インがあり、そこのハートフルルームは日本と同じ設備だそうなので、安心感があるからそこに泊めさせて欲しいとリクエストをメールしましたが「私たちが指定したホテルのバリアフリールームに泊まってもらいます」とのことで「みんな監督たちは同じホテル貸し切って泊まっているのかな」と思い、フランクフルトに着きましたが、他のスタッフや監督の方々もバラバラのホテルらしく、トイレもシャワーもとてもシンプルで、一人で浴室で落ちたりしたらどうしようかと不安に感じました。無理を言ってでも東横インに泊まると言い張れば良かったのですが、強く言わなくて後悔しました。

 翌日、アテンドの母子の案内で事務所に行きましたが、その時初めて冊子にまとめられた日程表やスタッフの写真などのセットを初めて渡され、「情報は決まった時点でどんどんPDFにしてメールで添付して送ってくれた方が、予定に合わせた準備が出来るのに」と、少し気になりました。自分の上映日もHPで確認して来たくらいで、食事もどうなるか分からないし、その上ひどい円安で、いくらユーロにしてくるべきか悩んだので。諸々の悪い予感が的中し、数日で体調不良になり、『Maelstrom』上映前日に入院することになりました。翌日、冒頭の舞台挨拶は間に合わず、終映直後に駆け込み、何とか舞台挨拶を済ませることが出来ました。そこで観てくれた方が後でインスタに感想を送って下さったり、熱心に観て下さったこと、いっぱいのお客さん前でインタビューして頂いたことなど、本当にありがたい機会を頂きました。

 1日入院することになってしまったことは、私がNYでの事故以降、脚が不自由なことは映画を観た一部の映画祭のスタッフは分かっていたはずなのに、アテンドのボランティア・スタッフ任せで運営側に私のような監督に対応する担当者がいないみたいで、結果的にトラブル回避出来ず、悪い印象を持ってしまう結果になったのは残念です。でも、自分はこんなに一人で解決させる伸びしろの能力があったと気づく、いい経験になりました。ローズマリー・トロッケルの展示してある現代美術館にアテンドしてくれたり、映画博物館にアテンドしてくれたボランティア・スタッフの皆さんのご親切は本当にありがたかったです。想像以上に暑かったこと、一般的に冷房がないこと、ホテルの個室に冷蔵庫がないこと、駅のエレベーターの汚れ、ペットボトルの回収や自転車専用道路に入らないことに細心の注意を払っていることなどが印象に残りました。

 いいこともありました。舞台挨拶を済ませ、監督のポートレイト撮影に向かう直前に声をかけてくれたのが、ウィーンの日本映画祭JAPANNUALのプログラマーのゲオルクさんと近藤さんでした。上映して頂けたから繋がれたこと、本当に感謝しています。次からは、ウィーンのJAPANNUAL映画祭について書こうと思います。

 

 Golden Week、皆さまいかがお過ごしでしょうか?私は横浜でアーティストレジデンスに参加しているので、いつもと何も変わらず過ごしています。新しいお知らせです。

 拙作『Maelstrom(マエルストロム)』が、6/6〜11までフランクフルトで開催されるNippon Connection - Japanese Film Festival 2023 のNIPPON DOCS sectionで上映されることになりました。

 周囲の先輩の映画監督の皆さんの作品も多数上映されている映画祭で、いつかこの映画祭で自分の映画をかけられるようになりたいな、と思っていました。プライベートな話ですが、ドイツやオ-ストリアには20代の頃に何度も訪れ、とても優しい人たちと過ごした特別な思い出があります。もうその頃とは状況が何もかも変わってしまいましたが、このような形で再訪出来ることが、本当に嬉しいです。今回は航空チケットがほぼ自費であることなどの理由で、結局一人で向かうことにしました。ドイツの映画祭でこの映画が上映されることで、自分がどんな心境になるのか。ドイツの人々は、どんな感想を抱いてくれるのか。このような機会を得るのを目標にして、この映画の制作に5年半費やしてきました。また新しい経験です。

 フランクフルトでは現代美術館など現代アートが見られる場所も可能な限り行きたいと思っています。すっかり忘れていましたが、情報収集しなければ…。アーティストレジデンスに参加しているのに、制作の作業は余り進まずに、別のことに追われている時間が長いですが、それでも、一人で家にいるよりも、他のアーティストの皆さんと話したり相談したり出来るこの環境は本当に貴重です。この環境に参加させて頂けてるだけでもプラスに働いていることしかなく、余り制作が進んでいなかったとしても、悲観せずに頑張りたいと思います。

 Enjoy your holidays!楽しい休日をお過ごし下さい😊!


  2023年に入ってから、新しい投稿が滞っており、申し訳ありませんでした。

 まず東京ドキュメンタリー映画祭in Osakaでの上映が、大阪の十三にあるシアターセブンで2月25日(土)14:45〜からあり、10年ぶりくらいに新幹線で移動しました。7年ぶりくらいに関西に移住した友人たちと再会出来たり、都内以外のミニシアターをほとんど知らない自分にとって、第七劇場やシアターセブンに訪れることが出来たのは、とても貴重な機会でした。新宿と大阪の映画館で自分の作った映像を初めて観ることが出来たのは、東京ドキュメンタリー映画祭のおかげでした。先日、大阪での上映に使われたブルーレイが返送されてきて、東京ドキュメンタリー映画祭2022関連のことは、お陰様で全て完了しました。

 そして、欧州での拙作ドキュメンタリー映画『Maelstrom』の上映のお知らせです。欧州で上映予定の2カ所の映画祭のうちのひとつ、ポルトガルのポルトで開催される女性映画祭PORTO FEMME INTERNATIOUAL FILM FESTIVALで4/21(金)に上映されます。もう直ぐです。ポルトガルには行ってみたいと思いつつ、残念ながら実際には気楽に行けないのが現実です。ポルトガル人の友人や近隣の友人達が観てくれたら嬉しいです。

https://portofemme.com/en/selina-2/

https://portofemme.com/en/

#Portofemmeinternationalfilmfestival

 欧州での自作の映画の上映が夢でしたので、実現出来て嬉しいです。また、6月にも、ずっと上映したいと思っていた欧州の映画祭で上映されます。そのお知らせは、後日させていただきますね。


 別件のお知らせですが、私がNYにいた時に写した写真で、写真集のzineを作ってみました。映画と同じタイトルの『MAELSTROM photos from 1998-2002』と名付けた写真集が、本日から駒沢にあるzineの専門店Mount Zineで販売が始まりました。今後はMount Zineのオンラインショップでの販売も開始されると思いますが、海外からも買い付けに来る素晴らしいZineの専門店で、絵や写真、エッセイ、コラム、詩集など独創的で個性溢れる力作のZineと沢山出会えますので、お店にぜひ足を運ばれると楽しいと思います。オススメです!

https://zine.mount.co.jp/shop/

 昨年12月12日と1日、新宿のケイズシネマで東京ドキュメンタリー映画祭が無事開催され、多くの人々が観に来ていただけました。また、いつもPCの小さな画面で観ていたので、自分の映画をDCPにした映像を初めて劇場のスクリーンで観ることができ、感動しました。多用途に使用されるホールとの、音の違いを実感しました。16にち日は表彰式があり、『Maelstrom(マエルストロム)』は受賞はなりませんでしたが、審査員の一人だった伊勢真一監督から、以下のようなコメントがありました。

「これは、凄い感動したのね。特別賞をあげたいって提案したんだけど、映画祭の方から、今回特別賞はありませんと言われて…。ナレーションが必要だと思えば、僕はどんどん使うべきだと思う。自分自身のことをず〜っと紐解いて行くドキュメンタリーで、これはもしかしたら誰にとってもね、ある時、あの地点からちゃんと紐解く必要があると思う時があって、それが映画になったり、小説になったり詩になったり、あるいは誰かに書く手紙になったりするんだと思うんだよね。そのことの持ってる…本当にこの人は作りたかったんだ、という熱量みたいなものをね、凄く感じたのね。圧倒的にそのことに引き込まれていくっていう作品でした。機会があったら、映画館でかかるか自主上映でかかるか分からないけど、どんどんああいう作品を、みんなが観るようになれば良いと思いました。」

 嬉しくて、式の後ご挨拶に向かうと、監督からの特別賞のトロフィーとして、シュトーレンを頂きました。本当に嬉しかったです。


 そして2023年の新年を迎え、拙作『Maelstrom(マエルストロム)』も、少しずつですが、新たなステージに進んでいます。

そんな中、現在、映画『THE FOOLS 愚か者たちの歌』が絶賛上映中の高橋慎一監督が、マエルストロムを気にかけて下さり、お忙しい中、観て下さいました。interfmで1月26日(木)に放送の、ロバート・ハリス氏の『Otona no Radio Alexandria https://www.interfm.co.jp/alex/』11:30〜の高橋慎一監督の、気になる映画や書籍を紹介する5分くらいのコーナーで、『Maelstrom(マエルストロム)』をご紹介頂くことになりました。

気が向いたら、ぜひお聴き下さい。